曹操に悪名を背負わせ、後々まで影響を与えた徐州大虐殺。陶謙により父を殺害された曹操が怒り狂い起こした軍だと言われており、その徹底した殺戮で数万の死傷者を出したと言われる戦いです。
一方的に曹操の悪行とされているこの戦いですが、実は、曹操を加勢して袁紹が援軍を派遣していた事は御存じでしょうか?
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朱霊を含め袁紹の将が曹操軍に加勢していた
その証拠は魏志の徐晃伝に付録としてついている朱霊伝にあります。
初 清河朱靈為袁紹將 太祖之征陶謙 紹使靈督三營助太祖
戰有功 紹所遣諸將各罷歸
靈曰:「靈觀人多矣 無若曹公者 此乃真明主也 今已遇 復何之?」遂留不去
ここには、朱霊が袁紹軍の将として三営(三千)の軍を率いて太祖(曹操)を助けて手柄を挙げた事が記されています。戦が終わると袁紹の将は銘々で帰還していきましたが朱霊は
「私は多くの人間を見てきたが曹公に及ぶ名君はいない真に仕えるべき主を見つけたのにどうして還れよう?」と
暗に袁紹ボンクラ宣言をし配下と共に曹操の下に留まったというのです。しかも、記述からは朱霊ばかりではなく、複数の袁紹配下の将が参加していた事が窺い知れる内容になっています。もしかすると、徐州虐殺の半分くらいは袁紹の将がやった事かも知れませんよ。
悲惨!曹操、袁紹を手伝い父を殺される?
さて、ここで疑問が浮かんできます。どうして袁紹のようなケチが曹操の弔い合戦で自軍を出すのでしょう?理由は幾つか考えられますが、元々曹操が徐州に出兵したのは、父親の弔い合戦ではなく、公孫瓚にくっついて袁術に与していた陶謙を袁紹の命令で攻撃する為だったのではないでしょうか?
そして実は陶謙は報復で曹操の父、曹嵩を殺害した・・つまり順番が逆なのではないかという事です。
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いきなり結論を書く、武帝紀の奇妙さ
また、徐州大虐殺を記述した武帝紀もちょっと妙なのです。それは、どうして徐州に曹操が攻め込んだか?その理由を書かず、いきなり194年春、太祖が徐州より帰還したと結果を書くからです。
ここから取ってつけたように、曹操の父の曹嵩は官を退いて故郷に還り、董卓の乱を避けて徐州瑯邪郡に避難したところを陶謙に殺害された。そのため曹操は復讐しようと決めて徐州を攻めたと記述しているのです。普通は原因を書いて結果を書くのであって、これはまるでサカサマです。史書において、このような通常の手順を無視した書き方がされる時はなんらかの支障があり本当の事を書けないというテンプレの時が多く
陳寿は、原因と結果をサカサマに記述する事によって、(本当は曹嵩が殺されたから曹操が攻め込んだんじゃないよ曹操が徐州に攻め込んだから曹嵩が殺されたんだよ)そのようなメッセージを残したのかも知れません。
父見殺しの批判をかわす為に魏志に細工がされた
兗州を得た頃の曹操は、まだ自軍の基盤が整っておらず袁紹の子分でした。その為、徐州を攻めよという命令を無視できず兗州には荀彧と夏侯惇を留守番に残して仕方なく攻め込んだのかも知れません。この時、徐州にいた曹嵩は、陶謙の報復で殺害されたのです。もし、魏志が、この順序で記述すると曹操は、父親が殺される事を知っていながら徐州に攻め込んだ親不孝者にされるでしょう。
ただでさえ宦官の孫という悪評判なのに、そこに父殺しが加わればもう、曹魏を継いだ晋としても都合が悪い事この上ありません。そこで、時系列を逆さまにして前後感覚をボカす事で、曹操が徐州に攻め込む→陶謙激怒→曹嵩殺害という流れを見えなくさせ父を見殺しにしたという事実を消したのではないでしょうか?
父殺しの目晦ましとしての徐州虐殺
こう考えると、徐州大虐殺は父殺しという曹操の本当の悪名を誤魔化す目晦ましの効果を持つのかも知れません。儒教の価値観で言えば、他人を何万人殺すより肉親の父を殺す方がずっと大罪です。無辜の民を殺すのも悪名ではありますが、父を見殺したという悪名よりは、後世の非難は軽くなるだろうからです。
三国志ライターkawausoの独り言
よくよく考えると曹操と曹嵩には、これという仲良し逸話はありません。反董卓連合軍の挙兵費用だって曹嵩ではなく曹操の親友の衛慈が家財を売り払って出しています。(武帝紀が引く魏晋世語による)これを見ると、曹操にとって曹嵩は特に頼れる相手ではなく、上司の袁紹の圧力に逆らってまで守らないといけない存在ではなかったというと言いすぎですかね・・
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