夏侯淵が定軍山で戦死した原因は兵力不足だった?

2018年8月12日


 

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夏侯淵

 

曹操(そうそう)に仕えた二人の夏侯(かこう)の内、生涯前線に立ち続けたのが夏侯淵(かこうえん)です。

勇猛にして部下に愛情があり、将軍らしい将軍だった夏侯淵ですが、

彼は漢中を劉備(りゅうび)と争い、法正(ほうせい)の計略により定軍山で黄忠(こうちゅう)に斬られてしまいます。

その理由について、曹操は

「夏侯淵は将軍らしからず、退く事を知らない匹夫の勇に陥った」と評しました。

しかし、この戦いそもそも魏が兵力不足であった事が敗戦の原因であるかも

知れないのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備の兵力は夏侯淵より多かった

劉備の兵力は夏侯淵より多かった

 

西暦218年、劉備は漢中を手に入れようとして陽平関に出張ってきました。

それに対して漢中を任されていた夏侯淵は撃って出てにらみ合いが起きます。

 

この時、劉備は別働隊として呉蘭(ごらん)雷銅(らいどう)張飛(ちょうひ)馬超(ばちょう)の別動隊を

武都(ぶと)に派遣していました。

 

ところが、それに対して夏侯淵は動いている形跡がありません。

逆に曹操が反応して、曹洪(そうこう)曹休(そうきゅう)を派遣して呉蘭と雷銅を戦死させます。

この戦いの総大将は曹洪でしたが、曹操は曹休に絶大な信頼を寄せて、

実質総大将として扱い、手柄を立てさせています。

 

それは、別にいいですが、曹洪にしても曹休にしても(ぎょう)から派遣されているわけです。

こんな遠くから派遣する位なら、夏侯淵に余分に兵力を与えて迎撃させる方が

ずっと効率的であるように思うのですが、どうして、そうしないのでしょう?

 

考えられる理由は一つ、曹操には兵力の余裕がなく、

夏侯淵は劉備を下回る兵力で漢中を守っていたという事です。

 



張郃相手に兵力を十に分散する劉備

張郃相手に兵力を十に分散する劉備

 

定軍山(ていぐんざん)の戦いで劉備は精兵万余を十に分けて張郃(ちょうこう)

ぶつかり勝てなかったとあります。

しかし、これは張郃伝の記述であり夏侯淵伝では張郃の軍は不利になり

夏侯淵は自軍の半分を裂いて救援に向かわせています。

劉備軍は万余と言いますが、仮に張郃と兵力が同数なら、

これを、わざわざ十にはわけないと考えらえます。

 

恐らく、兵力的には張郃の倍はいて、その半分を裂いて十に分け

張郃を攻撃したのでしょう。

それに対して、張郃はよく持ちこたえ負けませんでしたが、

かなり兵力は消耗したか、陣営を劉備に焼き払われ不利になり

これを危惧した夏侯淵が自軍を半分に割いて張郃を救援したのです。

 

夷陵の戦い

 

夏侯淵、劉備軍と遭遇、壮烈な戦死を遂げる

夏侯淵を倒す法正

 

劉備は夏侯淵の本軍が半減した事を勝機と見て、

法正の討つべしという助言に従い夏侯淵の軍に黄忠(こうちゅう)をぶつけます。

この時、黄忠は夏侯淵の本陣から南へ十五里離れた場所にある

逆茂木(さかもぎ)を焼き払います。

 

逆茂木とは、木の一方を研いで尖らせ、地面から斜めに

突き出させたもので、城壁をのぼる邪魔をする防御兵器です。

 

夏侯淵は、逆茂木を自ら直そうと軽装兵を率いて出てきて、

それを見た黄忠と法正は夏侯淵の本陣を包囲して軍鼓を盛大に鳴らし

奇襲をかけたので、夏侯淵は討ちとられたとあります。

 

非常に狭い所での戦いになったので、短兵は接近して激戦になり

ついに夏侯淵は逃げきれず戦死したのです。

 

ひたすらに守り続けている印象の夏侯淵・張郃

袁術

 

定軍山の戦いを見る限り、kawausoには夏侯惇と張郃の軍勢が

劉備を上回っていた様子は全く見られません。

 

もっとも史書には、劉備の兵力を精兵万余とするだけで、

具体的に張郃と夏侯惇にどの程度の兵力があったかは不明ですが

それでも史書を読む限り、劉備は自軍を裂いて十分割したり、

張飛や馬超を別動隊として武都に派遣したり、兵力には余裕があるようです。

 

逆に張郃は劣勢になり夏侯淵に救援を要請したり、夏侯淵自身も

逆茂木の修理を軽装兵で自ら出るなど、どこまでも貧乏くさい

少ない兵力をやりくりしている様子が目立ちます。

 

確かに少ない兵力で本陣を離れた事が夏侯淵の運命の分かれ道でしたが

そもそも少ない兵力を考慮し劉備の夜襲に備える為に兵を多く本陣に残し

少数の手勢で自分が出て士気を鼓舞しつつ修理をするほうが

効率的だと夏侯淵は思い当たったかも知れません。

 

兵力が十分にあれば、夏侯淵が自ら修理にあたる必要も

なかったのではないでしょうか?

   

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

三国志演義にひきずられると、夏侯淵は40万人、劉備は10万人ですが、

それは飽くまで演義の話で実際の戦いの兵数ではありません。

後には方面軍を組織して、10万単位で兵力を動員できるようになる魏も

まだ、この頃には、そこまで兵力の余裕はなかったのです。

 

まして漢中は曹操が負け惜しみ半分とはいえ、鶏肋(けいろく)と言い捨てた土地

優先順位が低くなると考えれば夏侯淵の裁量に期待して最低限の兵力で

防がせたと考えた方がリアリティがあるように思えます。

やはり、夏侯淵の戦死には、とぼしい兵力がまつわりついているような

気がしてならないのです。

 

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赤壁の戦い

 
 

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