西暦234年、蜀の丞相・諸葛亮は北伐の前線・五丈原で陣没します。
丞相亡き後、軍の撤退の総指揮をとったのは楊儀です。
このとき、楊儀とかねてから仲の悪かった魏延は楊儀の指示通りに撤退することに難色を示し、
楊儀は魏延を無視して自分たちだけでさっさと撤退を開始しました。
これに怒った魏延は楊儀への対立姿勢をあらわにし、プチ内戦状態となりました。
撤退の総指揮を任されたのが魏延と最悪に仲の悪い楊儀でなかったら避けられた事態だと
思いますが、諸葛亮はどうしてこんな嫌がらせのような人事を行ったのでしょうか。
そこには魏延への深い愛があったかもしれません。
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楊儀と魏延は水と火
正史三国志魏延伝には次のような記述があります。
魏延は士卒をよく養い、勇猛人に過ぎるものがあるうえ、性格も誇り高く、
当時の人々はみな魏延にへりくだり敬遠していた。
楊儀だけは魏延に対して容赦がなかったため、魏延も楊儀に対してムカついており、
二人の間柄は水と火のようであった。
互いに譲らぬ二人の最悪に仲の悪い様子がよく分かる記述です。
こんな二人のあり方に対して諸葛亮がどう思っていたかは、楊儀伝に書かれています。
諸葛亮は楊儀の才幹を深く愛惜しており、また、魏延の驍勇を頼りにしていたため、
二人の仲が悪いことをいつも残念に思っており、
どちらかを切り捨てるということはできなかった。
諸葛亮の遺言
楊儀の才幹と魏延の武勇、いずれも捨てがたく思っていた諸葛亮。
死期が迫るなか、自分亡き後の軍の撤退のしかたについて
魏延に一番後ろで撤退のしんがり(最後尾で敵の追撃をはばむ係)をさせ、
姜維は後ろから二番目を進むこと。
もし魏延が指示に従わなければ魏延のことは放っておいて先に出発すること。(魏延伝)
結局、その通りになって楊儀は魏延を置き去りにし、
怒った魏延が楊儀の先回りをして撤退の通路を焼いてしまい対立姿勢をあらわにし、
プチ内戦状態となりました。
諸葛亮は魏延が楊儀の言うことを聞かないかもしれないと分かったうえで
楊儀に撤退の総指揮を任せたんですね。
諸葛亮にも扱いづらかった魏延
よりによって魏延が一番反発しそうな人に撤退の総指揮を任せるという
嫌がらせのような人事ですが、どうしてわざわざそんなことをしたのでしょうか。
このことを考える前に、諸葛亮が魏延をどう思っていたかを整理してみます。
魏延伝に次のような記述があります。
魏延は諸葛亮に従って出征するたびに、一万人の兵を借り受け諸葛亮とは違う道を通って
潼関まで進み韓信の故事にならいたいと提案したが、諸葛亮はそれを許可しなかった。
魏延はいつも諸葛亮を臆病者であると言い、
自分の能力を発揮できないことを恨みに思っていた。
前線でいちばん偉い諸葛亮に対しても堂々と意見を言い、
聞き入れられなければあからさまにぶつくさ言う魏延。
諸葛亮は度しがたい相手だと思っていたことでしょう。
自分でさえ手を焼くのだから、自分がいなくなれば
誰にも押さえられなくなるのではないかという危惧を抱いていたに違いありません。
嫌がらせ人事は魏延への試練
抜群の武勇を持つ魏延。
諸葛亮は、できれば自分の亡き後も魏延がみんなの言うことを聞いて
しっかり働いてくれればいいなと思っていたはずです。
しかし、もしも魏延に他の人の言うことを聞く気なんてないとしたら、
そんな身勝手な人は邪魔なので今すぐ消えてくれと思っていたことでしょう。
臨終にあたり、諸葛亮は魏延に試練を課したのではないでしょうか。
魏延と最悪に仲が悪く、魏延が最も反発しそうな楊儀に
わざと撤退の総指揮を任せ、魏延に命令させるのです。
もし魏延がこれをぐっと耐え、己を殺して楊儀の言うことを聞くようであれば、
魏延はその後も蜀にとって役立つ武将でいてくれることでしょう。
ここで言うことを聞かないようなら、他のみんなで総力をあげて彼を葬ってしまえ。
諸葛亮が楊儀に撤退の総指揮を任せたのには、こんな意図があったのではないでしょうか。
三国志ライター よかミカンの独り言
魏延は撤退の総指揮をとるのが楊儀だと知った時に
はあ? なんであんな奴が? ドッカーン ってなる前に、
諸葛亮の意図をよくよく考えてみたらよかったのではないかなと思います。
その人事にはきっと、こんな言葉が隠されていたのではないでしょうか。
きみが一番嫌いな楊儀から命令を受けるなんて耐えがたいことだろうが、
これからはそういうこともぐっと我慢して
みんなと協調性を持ってやっていかないといけないぞ。
みんなきみのことを恐れていて、
正面きってものを言ってくれるやつなんかいないんだ。
協調性がないと判断されたらきみのいられる場所なんかどこにもないぞ。
だから耐えろ。
この試練には、愛すら感じます。
私の考えすぎでしょうか。
皆様はどう思われますか。
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