魏の五大将軍の一人に名を連ねている徐晃。この五人の将軍の中には合肥の戦いで大活躍して三国志の歴史の中で大活躍した張遼が入っています。
他にも蜀の将軍達や孔明からも恐れられた張郃、曹操から信頼され、戦では先鋒を命じられ、撤退する時には一番難しい殿を任せられた于禁 、果断な戦をして合肥の戦では張遼と共に活躍した楽進。
彼ら四人は魏の将軍の中でも名将と呼ばれる部類に入る人達ですが、徐晃は彼ら四人と同じように名将と呼ばれる将軍だったのでしょうか??
結論から言いますとレンは徐晃が上記の四人と同じくらいの名将といえる存在だったと思います。ではどうしてそのように思えるのか。徐晃が名将足りえる理由を説明していきたいと思います。
徐晃が名将な理由その1:地味だけど重要な働きをしている
徐晃は曹操に仕えると数々の戦に参加し、ほとんどの戦で活躍をしています。
例えば呂布討伐戦では徐晃は主力決戦に参加していませんでしたが、別働隊を率いて呂布軍の将軍を二人も討ち取っています。
また徐晃は官渡の戦いの時にも主力決戦に参加していませんが、袁紹軍の輸送車を襲って武器や兵糧などを強奪しています。
他にも漢中防衛戦で徐晃は漢中の要衝・馬鳴閣街道を劉備軍から奪い返すことに成功し、劉備軍の作戦をくじくことにも活躍しています。
このように徐晃の活躍は地味ですけど、戦においてかなり重要な活躍を何度もしている点をもって彼が名将と呼ぶことができるのではないのでしょうか。
徐晃が名将な理由その2:故事が残っている所
名将と呼ばれる人には必ずその名将に由来のある故事が残っていることが多くあります。
例えば張遼は合肥でのすさまじい活躍によって「遼来来」と呼ばれる故事が残されることになります。では徐晃にも彼に由来する故事が残っているのでしょうか。
徐晃が由来となった故事も存在していること判明しました。日本では長躯と呼ばれる言葉ですが、元々は徐晃が関羽を打ち破った時にできた故事が由来となっており「長躯直入」と呼ばれる故事です。この言葉の意味は遠い地点から一気に敵陣へ入り込み、敵陣を陥落させる意味がありますがどのようにしてできたのでしょうか。
徐晃は関羽が曹仁が篭城している樊城を救援するため、援軍を率いて陽陵陂 へ到着。しかし徐晃の幕僚の一人、趙儼 が
「関羽の兵力は多いので、もっと援軍が到着してから進むべきだ。
今は樊城と連絡を取るのが大事である」とアドバイス。徐晃は 趙儼のアドバイスを聞いて更なる援軍到着を待つと同時に城内と連絡を取り援軍が到着したことを報告させるのでした。
その後徐晃は、樊城を救援する援軍と合流し偃城を奪還し陣形を大きく広げながら関羽の陣近くに近づいていきます。徐晃は関羽の陣営近くに到着するまでに再度援軍を迎えいれ、兵力が大きくなった所で、囲頭に駐屯している関羽軍を攻撃すると関羽軍にもわかるように攻撃する態勢を見せます。
しかし徐晃が実際に攻撃したのは関羽軍が駐屯している別の陣営地である四冢と呼ばれる場所でした。徐晃はすさまじい攻撃を仕掛け、関羽自ら率いてきた援軍を蹴散らし四冢を陥落させ、そのまま樊城を包囲している関羽軍を撃破することに成功します。
長躯直入はこのときの徐晃の行動が由来となってできた故事です。そして名将と呼ばれる人物の多くが故事があるように徐晃にも故事があるので名将と呼ばれる人物だとは思いませんか。
徐晃が名将な理由その3:多くの歴史家が高評価!!
私達が三国志の事をよく知っているのはマンガやアニメ、ゲームが元になっていると思いますが、三国志を今日まで広めたのは多くの歴史家たちのおかげと言えます。その歴史家達が徐晃を高評価しており、この点も彼が名将と呼べる所だと思います。
例えば正史三国志を編集・執筆した陳寿は魏の中で活躍した将軍の一人に徐晃を挙げています。また宋の時代のある兵法家は中国の歴代将軍の中の一人として徐晃を数えています。
さらに南宋時代のある政治家は少ない兵力で敵兵を破った将軍の一人として徐晃を数えています。この点をもって徐晃が名将の一人に数えられるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
レンは上記三つの理由から徐晃が魏の名将の中の一人だと考えるのですが、皆様は徐晃が名将の一人として数えることのできる人物だと思いますでしょうか。
【参考】 正史三国志魏書など
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