馬謖はどうして劉備時代に活躍しなかったの!?

2018年11月7日


 

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馬謖と孔明

 

「馬氏の五常」の一人・馬謖(ばしょく)

諸葛孔明(しょかつこうめい)は馬謖へ色々な事を教え込み、南蛮征伐(なんばんせいばつ)では諸葛孔明へ作戦のアドバイスを行ったりしています。

また馬謖は街亭(がいてい)の戦いで魏の大軍を迎撃する大将へ任命されたりしています。

このように諸葛孔明の時代に馬謖はそれなりに活躍していました。

しかし馬謖はなぜか劉備(りゅうび)が生きていた頃には、諸葛孔明時代に比べるとあまり活躍していませんでした。

どうして馬謖は劉備が生きていた時代に活躍することができたなかったのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正史三国志から見る馬謖

正史三国志から見る馬謖

 

馬謖が劉備時代に活躍しなかった理由をお伝えする前に正史三国志で馬謖がどのような人物だったのか紹介したいと思います。

馬謖は馬良(ばりょう)の弟として兄貴と一緒に劉備に従って蜀へ入ります。

馬謖は劉備時代には大きな活躍をすることはありませんでしたが、越巂郡(えっすいぐん)の太守をしたこともある人物で、正史三国志では

人並み外れた才能を持ち、軍事戦略の事を常に考え論じていたそうです。

 

正史三国志では馬謖がかなり優秀な人物であったことが伺え、諸葛孔明が馬謖に大きな期待を寄せるのも(うなず)けるのではないのでしょうか。

これだけ正史三国志で高い評価を受けていた馬謖ですが、劉備は馬謖に大きな仕事を任せることをしませんでした。

一体どうしてなのでしょうか。

 

 

 



劉備の評価

劉備の評価

 

劉備は馬謖をどのように評価していたのでしょうか。

正史三国志によれば劉備は亡くなる前、諸葛孔明を蜀の成都から自分が居城としている永安へ呼び寄せて色々な事を話します。

劉備は諸葛孔明と色々な事を話し合っている時、人物の評価についての話になりました。

この時、劉備は諸葛孔明へ「馬謖は言葉だけが大きくて実績が伴わないことが多い。だから馬謖に大きなことを任せてはいけない」と伝えます。

劉備はこのように馬謖を高く評価していませんでした。

劉備は馬謖が大きな失敗を犯していないにも関わらず、どうして彼の才能を高く評価しなかったのでしょうか。

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黒田レンの三国志推測

黒田レンの推測

 

劉備はどうして馬謖の才能を高く評価しなかったのか。

ここからはレンの推測になるのですがお聞きください。

史実では描かれていませんが、もしかしたら馬謖が実績を伴わない進言を劉備へしたことがあったから劉備が馬謖の才能を

高く評価しなかったのではないのでしょうか。

 

そして劉備はこの時の馬謖の進言を聞いて、彼にあまり大きな仕事を任せるのはよくないと見抜いたのではないのでしょうか。

また馬謖が太守として統治していた頃、大きなことを述べていたにも関わらず、土地をうまく治めることができなかった事があったため、

劉備が馬謖の才能に期待を寄せなかったのかもしれません。

 

あくまでもこれはレンの推測ですが、劉備と馬謖の間に上記のように何かあったと考えることができるのではないのでしょうか。

そのため馬謖は劉備が生きていた頃、高く評価されず劉備時代に大きな活躍ができなかったと考えることができるのではないのでしょうか。

   

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レンの独り言

 

もう一つ劉備時代に馬謖が大きな活躍をすることができなかった理由があります。

それは劉備が生きていた頃、文官に優れた人材が多く存在していたことがあるかもしれません。

劉備が蜀に入った頃にはまだ馬謖の兄貴・馬良や法正(ほうせい)王連(おうれん)董和(とうわ)が生きており、他にも劉巴(りゅうは)陳震(ちんしん)等多くの優秀な人材達が生きていました。

そのため馬謖の才能では劉備時代に活躍するのが難しかったのかもしれません。

しかし諸葛孔明の時代には多くの優秀な人材達が蜀の国からいなくなってしまいます。

そのため諸葛孔明は劉備に注意を受けつつも、馬謖の才能を非常に重宝するようになってしまったのではないのでしょうか。

 

■参考文献 正史三国志蜀書等

 

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