「馬氏の五常」の一人・馬謖。
諸葛孔明は馬謖へ色々な事を教え込み、南蛮征伐では諸葛孔明へ作戦のアドバイスを行ったりしています。
また馬謖は街亭の戦いで魏の大軍を迎撃する大将へ任命されたりしています。
このように諸葛孔明の時代に馬謖はそれなりに活躍していました。
しかし馬謖はなぜか劉備が生きていた頃には、諸葛孔明時代に比べるとあまり活躍していませんでした。
どうして馬謖は劉備が生きていた時代に活躍することができたなかったのでしょうか。
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正史三国志から見る馬謖
馬謖が劉備時代に活躍しなかった理由をお伝えする前に正史三国志で馬謖がどのような人物だったのか紹介したいと思います。
馬謖は馬良の弟として兄貴と一緒に劉備に従って蜀へ入ります。
馬謖は劉備時代には大きな活躍をすることはありませんでしたが、越巂郡の太守をしたこともある人物で、正史三国志では
人並み外れた才能を持ち、軍事戦略の事を常に考え論じていたそうです。
正史三国志では馬謖がかなり優秀な人物であったことが伺え、諸葛孔明が馬謖に大きな期待を寄せるのも頷けるのではないのでしょうか。
これだけ正史三国志で高い評価を受けていた馬謖ですが、劉備は馬謖に大きな仕事を任せることをしませんでした。
一体どうしてなのでしょうか。
劉備の評価
劉備は馬謖をどのように評価していたのでしょうか。
正史三国志によれば劉備は亡くなる前、諸葛孔明を蜀の成都から自分が居城としている永安へ呼び寄せて色々な事を話します。
劉備は諸葛孔明と色々な事を話し合っている時、人物の評価についての話になりました。
この時、劉備は諸葛孔明へ「馬謖は言葉だけが大きくて実績が伴わないことが多い。だから馬謖に大きなことを任せてはいけない」と伝えます。
劉備はこのように馬謖を高く評価していませんでした。
劉備は馬謖が大きな失敗を犯していないにも関わらず、どうして彼の才能を高く評価しなかったのでしょうか。
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黒田レンの三国志推測
劉備はどうして馬謖の才能を高く評価しなかったのか。
ここからはレンの推測になるのですがお聞きください。
史実では描かれていませんが、もしかしたら馬謖が実績を伴わない進言を劉備へしたことがあったから劉備が馬謖の才能を
高く評価しなかったのではないのでしょうか。
そして劉備はこの時の馬謖の進言を聞いて、彼にあまり大きな仕事を任せるのはよくないと見抜いたのではないのでしょうか。
また馬謖が太守として統治していた頃、大きなことを述べていたにも関わらず、土地をうまく治めることができなかった事があったため、
劉備が馬謖の才能に期待を寄せなかったのかもしれません。
あくまでもこれはレンの推測ですが、劉備と馬謖の間に上記のように何かあったと考えることができるのではないのでしょうか。
そのため馬謖は劉備が生きていた頃、高く評価されず劉備時代に大きな活躍ができなかったと考えることができるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
もう一つ劉備時代に馬謖が大きな活躍をすることができなかった理由があります。
それは劉備が生きていた頃、文官に優れた人材が多く存在していたことがあるかもしれません。
劉備が蜀に入った頃にはまだ馬謖の兄貴・馬良や法正、王連、董和が生きており、他にも劉巴、陳震等多くの優秀な人材達が生きていました。
そのため馬謖の才能では劉備時代に活躍するのが難しかったのかもしれません。
しかし諸葛孔明の時代には多くの優秀な人材達が蜀の国からいなくなってしまいます。
そのため諸葛孔明は劉備に注意を受けつつも、馬謖の才能を非常に重宝するようになってしまったのではないのでしょうか。
■参考文献 正史三国志蜀書等
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