陸遜の息子で父親同様、孫呉の歴史にその名を刻んだ名将・陸抗と学問の才能に長けた蜀の羅憲。この二人には共通点がほとんど無いように思えますが、実は陸抗と羅憲、一回だけ戦ったことがあるのです。陸抗と羅憲二人の戦いはどちらに軍配があがったのでしょうか。
少数で永安城を守る羅憲
羅憲は青年期から学問に長けた人物で、蜀の外交官として二度ほど孫呉と親睦を深める使者としての任務を行っています。この時孫呉側は羅憲の応答に感銘し彼を大いに褒めたたえたそうです。
そんな羅憲ですが皇帝・劉禅の宦官・黄皓と仲良くする事ができなかったため、左遷させられてしまいます。羅憲が左遷させられた官職は巴東太守ですが、幸いな事に蜀の右大将軍・閻宇の副将となって彼の部下として働くことになります。その後、魏が蜀へ侵攻してくると羅憲は閻宇から永安城の守備を行うように命令を受けます。羅憲は閻宇の命令を受けて永安城を守備するべく入城しますが、ここから彼の苦しい戦いが始まることになります。
孫呉の軍勢が攻撃を仕掛けてくる
羅憲は閻宇の命令通りしっかりと永安城を守っていましたが、蜀の劉禅が鄧艾へ降伏し蜀は滅亡することになります。
羅憲は劉禅が魏へ降伏した後も永安城を守っていましたが、蜀滅亡の数か月後、孫呉の軍勢が永安城へ襲来してきます。羅憲は蜀へ襲撃を行ってきた孫呉の軍勢を見事に打ち破って永安城を守り切ることに成功します。この時羅憲は部下を司馬昭の元へ派遣し、救援軍を派遣してくれるように要請を出します。
名将・陸抗投入
孫呉は永安攻略軍が敗北したことを知ると、本気を出して蜀を手に入れるため名将・陸抗を援軍として派遣します。陸抗は軍勢を率いて永安城へ到着するとこの城を包囲して、持久戦を展開。こうして孫呉の名将・陸抗と羅憲の戦いが始まります。
陸抗VS羅憲の戦いの結末は?
陸抗VS羅憲の戦いの結末はどうなったのでしょうか。両者の戦いの結末は結果から先に述べると陸抗の負けで終わります。陸抗は永安城を攻略するため、永安城を包囲して持久戦を展開するのは上記で説明しました。陸抗の永安包囲戦はこの包囲戦は半年もの間継続することになります。
羅憲は陸抗の軍勢に永安城を包囲されてもしっかりと永安城を守って陸抗の攻撃を防ぎぬきます。そして羅憲が司馬昭の元へ派遣した部下が援軍を連れて帰ってきます。
陸抗は魏が永安城を救うための援軍が来た事を知ると急いで軍勢を撤退させていくのでした。こうして二人の戦いは羅憲に軍配があがることになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
陸抗と羅憲の戦いを紹介しましたが、もし陸抗が益州を手に入れることに成功していれば歴史は大きく変化することになったと思います。蜀が滅亡した時点で魏と孫呉の南北時代へ突入することになります。
しかし魏は蜀を滅亡させたことによって中華の半分以上を手に入れており、孫呉を領土的にはいつでも孫呉を滅亡させることが出来るくらいの力を手に入れることになります。対して孫呉は蜀が滅亡した時点でも孫権が生きていたころとほとんど領土が拡大されることなく推移しており、魏と比較して圧倒的に不利な状態でした。
ですがもし陸抗が羅憲の永安城を陥落させ、益州を占領することになれば魏と呉の戦いはかなり長い間継続することになり、司馬炎の時代になっても天下統一することが出来なかったと思われます。そのため羅憲が永安城をしっかりと守備して、孫呉軍やその後にやってきた陸抗率いる軍勢を追い払ったことは、称賛に値する働きと言えるでしょう。そして、歴史的に見ても羅憲が永安城を守り抜いたのは晋の中華統一にとても大きな役割を果たしたといえるのではないのでしょうか。
■参考 三国志武将辞典など
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