もしも、曹丕が禅譲を要求せず後漢王朝が存続したら?

2019年1月6日


 

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三国志のもしもを追求するこのコーナー、今回のもしもは、もし曹丕(そうひ)禅譲(ぜんじょう)を要求せず後漢王朝が存続したら?でやってみたいと思います。
もし、後漢王朝が献帝(けんてい)で終らず存続し続けたら三国志はどうなるのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹丕が後漢を滅ぼさないせいで、献帝は・・

 

帝位を狙う気満々だった曹丕ですが、ある日、どういう風の吹き回しか、「俺は帝位要らね、魏王でいいや」と宣言しました。その結果、執拗な帝位禅譲プログラムは停止、献帝はそのまま後漢皇帝として存続し強大な曹魏王朝の中に取り込まれる形で存在を許されます。

 

しかし、曹丕はずる賢いヤツですから、決して後漢王朝が権力を握らないように、あらゆる権限をはく奪、献帝からの詔で魏王である曹丕に与える事にしました。やがて、曹丕は死に、二代目魏王として曹叡(そうえい)が即位しますが、ここで困った事が発生します。

 

「文武百官を任命する権限を持ったものの、自分を魏王に任命するのは、自分では出来ないという事に思い当たるのです」曹丕の時代に後漢を滅ぼしておけば、適当に天壇を整えて天に報告すればいいですが後漢皇帝がいる以上、そんな白々しい事は出来ません。曹叡は渋々、献帝に対して自分を魏王に任命するように迫ります。

 

もちろん、献帝にそれを拒否する権力はないので、それに応じますが、魏王即位の儀式は皇帝即位に匹敵する盛大なものでした。これにより、曹魏の強大さをPRした曹丕ですが、天下万民は、曹叡に冠を授ける献帝の姿に感銘を受けました。かくして、後漢は権力を失う代わりに権威の象徴になるのです。

 

 

 

蜀漢 北伐を断念し早期に消滅

 

献帝が位を奪われない事で誰よりも大ダメージを受けたのは蜀の劉備(りゅうび)でした。折角、献帝が死んだ事にして、皇帝に即位しようと思えば曹丕は魏王のまま、これでは、曹丕を差し置いて劉備が即位すれば袁術(えんじゅつ)と同じになります。

 

劉備は渋々、漢中王の地位で留まり漢を蔑ろにする曹魏を討つとトーンダウンする事になります。ところが、夷陵(いりょう)の戦いで敗戦した劉備は病を発症して病死、そこで、息子の劉禅を次の漢中王に立てようとして問題が・・そうです、献帝に伺いを立てないと漢中王にはなれないのです。

 

もちろん献帝としては、劉備はともかく後漢王朝で官位を得た事もない劉禅の漢中王即位にOKを出すわけにはいきません。()れた諸葛亮(しょかつりょう)は事後承認で強引に劉禅を即位させます。しかし、益州の人士は、献帝の承認を得ない即位に不満たらたらでした。

 

 

やがて献帝より、勝手に劉禅が漢中王を名乗った事に対する譴責(けんせき)が届き、怯えた劉禅は漢中王を返上、ただの益州牧を自称します。献帝は曹叡の赦しを得てこれを認めますが、取りも直さずそれは、後漢の権威に蜀が屈した事を意味しました。

 

諸葛亮は、蜀内部の度重なる反乱を恐怖政治で抑えますが、心労のせいで、北伐を起こす事もなく234年に成都で死去。いくら頑張っても諸葛亮以上の事はやれない後継者蔣琬(しょうえん)は、費禕(ひい)などと謀り、曹魏ではなく後漢王朝への降伏を申し出ます。

 

これなら、賊である曹魏に降ったのではないと関羽みたいな言い訳も立ちますね。もちろん曹叡は大喜び、一兵も損なわずに235年蜀は滅亡しました、天水の姜維(きょうい)は出番もなく涼州の一豪族で人生を終えます。

 

民間伝承の三国志

 

 

ドミノ倒しで呉も降伏

呉の孫権は皇帝

 

235年、劉禅が降伏すると当然、南に一国だけ残った孫呉も降伏します。すでに蜀が陥落した今では、国力において呉に勝ち目はないからです。おまけにその討伐命令は、後漢皇帝から出されます。

 

幸い、曹丕が後漢を滅ぼしていないので、孫権も呉王に封じられず、よく分からないなんちゃら将軍という雑号将軍のままですし、一戦して心証を悪くするよりは、さっさと降伏してしまえというので、皇太子の孫登(そんとう)を洛陽に派遣人質にしてしまいます。

 

曹叡はいきなり、孫権の地位を奪うのではなく、そのまま州牧として呉を任せ反乱を抑制しながら徐々に兵権を奪う方針に出ました。251年、孫権が死に、皇太子の孫登はそれ以前に没している事を理由に、魏は呉の世襲を認めずに領地を没収します。少しは反乱もあるでしょうが、すでに洛陽に皇太子を差し出しているような呉に気骨のある人士は残っておらず、皆、名目上は後漢の臣として命令を粛々と受け入れたのです。ここに三国は後漢の下に再々統一されました。

 

 

司馬懿の台頭はなく曹爽の親政の後、曹芳の統治が続く

年を取った司馬懿

 

実際の三国志では、魏の司馬懿(しばい)が北伐で活躍したのをきっかけに重臣に登り詰め、やがて、高平陵(こうへいりょう)の変で宗族の曹爽(そうそう)を追い落として晋の建国に繋がりますが後漢王朝が存続しているif世界では蜀漢が建国されないので、諸葛亮の北伐もなく、当然司馬懿の活躍も大幅に制限されました。

 

曹爽時代は、その取り巻きの何妟(かあん)丁謐(ていひつ)鄧颺(とうよう)が幅を利かすデカダンな政治体制が続きますが、なにしろ、すでに呉も蜀もありませんので社会不安にもならず曹爽の死後は、無事に成人した曹芳(そうほう)が親政し曹魏は続いていきます。しかし、時代を経ると曹魏の上にあり魏王に封じる権限を持つ後漢王朝こそが、正当という儒教に根差した価値観が浸透するようになり、曹魏の王たちは、そうそう暴力的な政治が出来なくなりました。

 

かくして、中国においても乱世には、後漢皇帝を握ったサイドが王に封じられ天下を代理して治めるという二重統治が確立し、易姓革命(えきせいかくめい)という流血の大惨事は大幅に軽減されていったのです。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

それから1800年後、中国の歴史教科書には以下の記述が・・

 

偉大なる曹操と曹丕、二人の魏王の英邁な決断が後漢王朝を救った。以後1800年、漢皇帝は中華人民の象徴として200代途切れる事なく続いているのである。三国志演義は成立しませんでしたが、中国は遥かに穏やかで安定した歴史を紡いでいきましたとさ・・

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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