「治世の能臣、乱世の姦雄」
これは正史三国志武帝紀の注釈に引用されている『異同雑語』で、人物鑑定家の許劭が曹操に与えたとされる評です。
一方、後漢書の許劭伝では、許劭が曹操に与えた評は「清平の姦賊、乱世の英雄」となっています。
意味が真逆になっておりますね……。
いずれにしても、なんとなく油断のならない人のように言われがちな曹操。
本日は、その曹操が漢王室にとっての忠臣だったのか奸臣だったのかを考えてみます。
三国志演義のおさらい
漢王朝が衰退期にあった頃、曹操や劉備や孫堅親子のような群雄たちが力を持ち始め、やがて魏・蜀・呉の三国が鼎立するようになったという三国志。
三国志演義の中では、曹操は漢王室をないがしろにした奸臣として描かれています。
なぜなら、三国志演義は劉備の蜀びいきで書かれているからです。
蜀びいきである以上、蜀の敵である魏の礎を築いた曹操は悪いやつでなければならないからです。
三国志演義が蜀びいきであるのは、三国志より後の時代、漢民族が北方の異民族による圧迫を受けていた頃に三国志演義が形成されたためです。
三国志は漢王室の血統につらなる劉備が北の強大な魏と対峙する構図ですので、北方異民族に悩まされている人なら劉備の蜀を応援したくなるのが人情
です。
このため、曹操が忠臣であったか奸臣であったかを考える際に、三国志演義に描かれている悪役の人物像は参考になりません。
正史三国志では
正史三国志を見ても、曹操が忠臣かどうかは分かりません。
混沌とした情勢の中であれこれ頑張っている姿が見えるだけで、それが漢のためなのか天下のためなのか自分のためなのかは分かりません。
霊帝を廃位しようとする人たちがいた時に、一緒にやろうと誘われたのを断っていますから、帝室のことを臣下がどうこうするのはよくないことだとは
考えていたかもしれません。
もっとも、それも、成功の見込みが少なくリスクが大きいと判断して保身のために断っただけかもしれません。
一つ確かなことは、袁術が自ら皇帝を称したり、袁紹が自分の押しの人物を皇帝にまつりあげようとしたりしていたような、漢の皇帝の権威が失墜
した状況の中で、曹操は漢の皇帝を自分の勢力の中に迎え入れて保護し、皇帝を上に戴いていたということです。
これだけ見ると、忠臣なんじゃないかな、というふうに見えますね。
帝位簒奪を断る
武帝紀の注釈に引用されている『魏氏春秋』によれば、夏侯惇は曹操に次のように言っています。
「天下の者はみな漢王室の命運がすでに尽きていることを知っており、王朝交替がおこると分かっています。
いにしえより、民の害を除き民を帰服させうる者が民の主となるのです。
いま殿下は三十年あまりを征戦に過ごし、その功と徳は広く知れ渡っており、天下の人々は殿下に帰しております。
天に応じて民に従うことをなぜためらうのですか」
これに対し、曹操はこう答えています。
「有政に施す、これまた政をなすなり(『論語』為政)。もし天命が我にあるならば、私は周の文王になろう」
周の文王は、殷王朝の末期に天下の人心を得ながらも、最後まで殷の臣としての立場を貫いた人です。
周の文王になろうと言ったということは、やっぱり忠臣ですかね? ……否! 否ですぞ!
言葉のはしばしに見える曹操の野心
周の文王は、自分は終生 殷に仕えましたが、息子が殷を放伐して王朝交替をなしています。
曹操が「私は周の文王になろう」と言ったのは、「息子を皇帝にしてやってくれ」という意味では?
この言葉だけでは曹操の野心を証明する材料が少ないでしょうか。
他にも材料があります。
正史三国志荀彧伝には、曹操が荀彧を得た時に「我が子房だ」と喜んだとあります。
子房は、漢王朝の創始者である劉邦を補佐したブレーンの張良のあざなです。
荀彧を張良に喩えるということは、曹操は劉邦ということになります。
この一言から、曹操がいずれ漢王朝の次の新しい王朝の創始者になろうという志を知ることができます。
まだあります。
正史三国志張郃伝には、曹操が張郃を得た時に「微子が殷を去り、韓信が漢に帰服したようなもの」と喜んだとあります。
微子は滅び行く殷を去り新しい王朝の周に降伏した人、韓信は項羽を見限り漢王朝の創始者である劉邦に鞍替えした人です。
曹操、自分が新しい王朝の創始者になる気まんまんです!
若い頃には自分を劉邦にたとえていましたが、年をとってから、どうやら自分の代で王朝交替を成し遂げるのは難しいと判断して、
自分は周の文王になり息子を武王にと考え始めたのではないでしょうか。
こりゃあやっぱり奸臣ですな。
三国志ライター よかミカンの独り言
曹操は若い頃からあからさまな比喩を用いながら「俺は新しい王朝の創始者になる男だ!」って吹聴していたんですね。
で、それに我慢できる人はついてきたけど、我慢ならない人は禰衡みたいに「ボクは発狂したので曹操サマには会いに行けません。ウヒョ!」という
態度をとるしかなかったのではないでしょうか。
曹操はいつも自分の野心をほのめかしながら行動し、誰が敵で誰が味方かをあぶり出していたのでしょう。
人物評としては、「乱世の姦雄」が当たっていると思います。
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