【岳飛】現存している出師の表の執筆者は諸葛亮ではなく岳飛だった

2019年2月8日


 

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孔明による出師の表

 

現在、成都(四川省成都市)には武侯祠(ぶこうし)という祠があります。

三国時代(220年~280年)の蜀(221年~263年)の政治家の諸葛亮(しょかつりょう)を祀っていることで有名です。

武侯祀には〝出師の表(すいしのひょう)〟というものがあります。

 

これは諸葛亮が建興5年(227年)に(220年~265年)を北伐する時に、君主の劉禅(りゅうぜん)に奉った文書です。

諸葛亮の忠義心が表れた文書として知られており、戦前の日本ではこの文書を読んで泣かない者は〝不忠者〟のレッテルをはられたようです。

筆者は読んでも泣けないので〝不忠者〟〝非国民〟のようです。

 

『は〇しのゲン』で例えるのなら、町内会長から白い目で見られる存在です。

 

話がすごく逸脱したので戻ります。

さて、現存している出師の表は諸葛亮の直筆ではありません。

執筆したのは全くの別人だったのです。

では一体どこの誰なのでしょうか。

 

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執筆者は岳飛

岳飛(南宋の軍人)

 

武侯祠の出師の表の執筆者は南宋(1127年~1279年)の人です。

そんなに後年の人物なのかとびっくりされるかもしれませんが、それが事実です。

執筆したのは岳飛(がくひ)という南宋の武人です。

 

世界史の教科書でご存知の読者もいるかもしれませんが、知らない人もいるので、ざっくりと解説します。

岳飛は一平卒から全軍を指揮する将軍にまで成りあがった人物です。

日本で例えるなら、豊臣秀吉です。

 

岳飛が生きていた南宋初期は、北方の金(1115年~1234年)という国と戦争が続いていました。

南宋朝廷では主戦派と講和派で争いになっていました。

岳飛は主戦派の筆頭の人物でした。

 

しかし、朝廷では皇帝の高宗(こうそう)や宰相の秦檜(しんかい)を筆頭に講和派が多数を占めていました。

結局、講和派が勝利して岳飛は講和の邪魔になるとみなされて殺されました。

この悲劇と死ぬまで主戦派であったことから、岳飛は中国史上最大の英雄と称賛されています。

 

現存している出師の表は、紹興8年(1138年)に岳飛が武侯祠を参拝した時に執筆したようです。

 

 

 

識字能力のある将軍

 

岳飛は上記の内容から分かるように、武人にしては珍しく識字能力を持っていました。

「えっ?」と思うかもしれませんが、本当の話です。

 

中国の武人は識字能力無しが〝当たり前〟でした。

具体的な例を出せば、三国時代の蜀の武人の王平(おうへい)が識字能力が無かったことで有名でした。

 

岳飛のようなタイプが異質だったのです。

もちろん、岳飛以外にも識字能力のある武人も数えればたくさんいますが、今回は関係無いので話しません。

 

ところで1つの問題が生じます。

誰が岳飛に識字能力を培わせたのでしょうか。

 

君主論

 

 

岳飛の家庭教師

 

岳飛の家庭教師は周侗(しゅうとう)という人物です。

岳飛は周侗から教えを受けたようですが、残されている史料からは弓や弩の話ばかりであり、学問の話はでてきません。

学問は独学のように執筆されています。

 

しかし、これは岳飛を天才のように描くための誇張表現の可能性が高いです。

1人で学んだとは考えられません。

そこでもう少し調べてみました。

 

すると清代(1644年~1911年)に執筆された『説岳全伝』という小説では周侗が学問・武術という家庭教師という扱いになっていました。

『説岳全伝』によると、次のような話になっています。

   

 

幼少期の岳飛にほれこむ

 

妻・子ども・弟子も失った周侗は王家村に行きました。

村長の王明(おうめい)は息子の王貴(おうき)やその悪友たちに手を焼いていた。

王貴は正史では岳飛を裏切る部下ですが、『説岳全伝』では義兄弟という扱いになっています。

 

周侗は王貴たちの根性を叩きな直そうと言って引き受けました。

スパルタ教育の結果、王貴と悪友たちは真面目になりました。

 

そんなある日、周侗が留守の間に小テストをさせられていた王貴は、偶然来ていた岳飛に小テストを押し付けました。

従来(?)、頭が良かった岳飛は全ての小テストを仕上げると帰りました。

 

用事を済ませて戻って来た周侗は、小テストを見るが、王貴たちが書いたとは思えない内容だったので問い詰めました。

すると、王貴たちは白状します。

 

一方、呼び出された岳飛は叱られると思ったが逆に周侗からほめられて、「今日からここで学びなさい」と言われました。

岳飛は周侗に莫大な感謝をしたという話でした。

 

宋代史ライター 晃の独り言

晃(あきら)akira

 

もちろん『説岳全伝』の話を筆者は全面的には受け取りません。

『説岳全伝』はかなり、荒唐無稽な小説だからです。

ただし、モチーフとする以上、周侗が岳飛の学問の師であったと考えてもよいのではないのでしょうか。

だから、あのような出師の表が執筆できたのではないでしょうか。

 

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