関羽の臣下として名の知れた武将である周倉。しかし、彼は『三国志平話』や『三国志演義』などの『三国志』をモデルとした作品の上でだけ登場する架空の人物です。
それでも、彼の人気は絶大なもので、『三国志』をモデルにしたゲームなどにも登場しています。そんな彼のゲーム内での武力は高く設定されることが多いようで、使い勝手が良いと評されているようです。ところで、この周倉は『三国志演義』ではどのくらいの武力を持つ武将として描かれているのでしょうか?
今回は、周倉の武力について徹底検証してみたいと思います。
趙雲にボコボコにされる程度の能力
周倉は元々黄巾賊の一員でしたが、黄巾の乱が鎮められて以降は臥牛山で山賊として生計を立てていました。この経歴だけを見ると「周倉はしょうもない人だったのだな…」と思ってしまう人もいるかもしれませんが、彼は関羽の噂を聞いては一喜一憂し、関羽に会うことすら叶わない自分の境遇を嘆くピュアボーイ(?)だったのでした。
そんな周倉でしたが、関羽の千里行に行き合ったことにより彼の運命は一変!関羽の右腕としての周倉の生活が始まります。しかし、初めて関羽から仰せつかった臥牛山で留守を任せていた裴元紹を迎えに行くというお使いを果たそうと出かけたところ、なんと山賊狩りをしていた趙雲に出くわしてしまいます。
敵襲だと思った周倉は手勢と共に趙雲を倒さんと飛び掛かりますが、趙雲は周倉一味をバッタバッタとなぎ倒していき、手も足も出ず…。結局、周倉は趙雲から逃げだすのですが、逃げ出した先にはちょうど周倉を迎えに来てくれていた関羽と張飛、劉備がいました。そこで周倉は劉備に挨拶し、趙雲のことを警告したのですが、劉備にとっては朗報以外の何ものでもなく…!このエピソードに鑑みるに、周倉の武力は趙雲には遠く及ばなかったということが窺えますね。
孫権を出し抜く程度の能力
続いて、関羽が荊州に陣取り、魯粛が交渉を申し込んできた場面に移ります。魯粛は一対一の会談を申し込んできたのですが、実はそこには孫権の陰謀が渦巻いていました…。関羽と魯粛の会談は最初こそ和やかに進んでいたものの、本題に近づくにつれてヒートアップ。
そこで横やりを入れたのが周倉でした。「天下の地は徳ある者のものだ!呉が独り占めして良いものではない!」これを聞いた関羽は周倉の罵声に負けないくらいの大声で周倉を怒鳴りつけ、周倉を会談の場から退出させました。
しかし、これは孫権の陰謀を見破っていた2人の小芝居。周倉はすぐに水軍に相図して岸に呼び寄せ、関羽は魯粛を人質にして船に乗り込み荊州に帰って行ったのでした。これは武力というよりも知力?連携力?という感じですかね。
龐徳を捕まえる程度の能力
ここまでご紹介したエピソードを読んで「周倉ってそんなに武力が無いのでは…?」と思った人は少なくないかもしれません…。そこで最後に、周倉の活躍ぶりが窺える名エピソードをご紹介しましょう。
これは、関羽が龐徳を迎え撃ったときの話です。曹操に仕えていた龐徳は自らの覚悟を示すべく、棺を作って決死の出陣をします。そんな龐徳は関羽の左腕に矢を命中させ、戦いを優位に進めていきました。
ところが、手ごわい関羽がそんなことでやられるはずもなく、水攻めによって龐徳軍を絶体絶命の窮地に陥れます。そのとき、周倉は部下に龐徳の船を転覆させ、得意の水練によって龐徳を生け捕りにすることに成功!敵将を水中で捕縛する周倉、なかなかやりますね!
…あれ?
「これも武力と呼べるものでは無い」
という幻聴が聞こえてきますね。
水練がうまいのだって立派な武力ですよ…!
三国志ライターchopsticksの独り言
周倉の有名なエピソードとして3つのお話を取り上げてみたのですが、結局のところ周倉の武力は趙雲より低いということくらいしか明らかにできませんでした。
しかし、関羽が大事な局面において重要な役割を周倉に任せていたということからは関羽からの厚い信頼を得ていたことが窺えますし、やはり周倉は頼りがいのある強い武将という設定だったのでしょう。
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