劉禅その後はどうなった?皇帝劉禅の生涯・降伏後の姿は本当の姿だった?


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劉禅

 

劉禅(りゅうぜん)(しょく)(221年~263年)の第2代皇帝です。後主(こうしゅ)とも呼ばれていますが、劉禅が有名なので、この記事では劉禅で通します。

 

蜀はこの劉禅の代で滅亡することになりますが、劉禅はその後どうなったのでしょうか。

今回は劉禅の生涯について解説致します。

 

自称・皇帝
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驚愕!?劉禅は人身売買で売られていた!!

 

劉禅の幼き日の逸話に、変なものがあります。

魏略(ぎりゃく
)
』という書物に記されている劉禅人身売買説です。

 

曹操から逃げ回る劉備

 

建安5年(200年)に曹操(そうそう)の攻撃を受けて敗北した劉備(りゅうび)は、妻子を置いて逃げました。その時、劉禅は5~6歳程度でしたが、漢中で人に売り飛ばされました。

 

それからは時が流れて、建安16年(211年)に劉括(りゅうかつ)という人が劉禅を買いました。しかし、買ってみたが気品のある人物なので養子にして嫁も用意してやりました。

 

その後、話を聞いた張魯(ちょうろ)が劉備のもとに劉禅を返して、親子は再会を果たしたということでした。もちろん、この話は真っ赤な嘘です。

 

他の史料では劉禅が生まれたのは、劉備が荊州の劉表(りゅうひょう)に世話になっていた建安12年(207年)となっています。

年齢が全く合いません。

 

劉備が建安5年(200年)に曹操(そうそう)の攻撃を受けて敗北して、妻子を見捨てたことは事実ですが、この時の子は、名前も残っておらず誰だか分かりません。おそらく劉備には劉禅より前に男子がいたのでしょうけど、劉禅が生まれる前に亡くなったと推測されます。

 


 

趙雲に命を救われる

長坂の戦いでの趙雲

 

建安13年(208年)に荊州の長官の劉表が亡くなって子の劉琮(りゅうそう)が後を継ぎました。ところが、子の劉琮は曹操が来るとすぐに降伏しました。

 

急いで劉備は逃げ出しました。一方、曹操も追いかけました。

追いつかれた劉備は長坂で戦闘になりました。

 

この時、劉備と1歳の劉禅は生き別れになりました。だが、趙雲が助けてくれたので劉禅は九死に一生を得ました。

 

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孫夫人に拉致される劉禅

孫尚香

 

建安14年(209年)に劉備は孫権(そんけん」の妹(孫夫人(そんふじん))と政略結婚をしました。ところが、この孫夫人は思った以上に気の強い女であり劉備は気が合いません。

 

劉備とイチャイチャする孫尚香

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)』では仲睦まじい夫婦として描かれていますが、実際は違っていました。まあ、ギャルとおっさんの結婚なんて、そんなものですよ。

劉備との生活に嫌気がさした孫夫人は、建安17年(212年)に呉に帰ることにしました。

 

もちろん、ただではなく劉禅も連れて帰ります。しかし、孫夫人の計画は趙雲と張飛に知られたので阻止されました。

劉禅は趙雲に2度も助けられたのです。


  

 

 

諸葛亮死亡~費褘死亡まで(234年~253年)

過労死する諸葛孔明

 

建興12年(234年)に丞相の諸葛亮(しょかつりょう)は亡くなりました。諸葛亮の死後は、蒋琬(しょうえん)が後任になります。

彼は戦はせずに、国力の温存に努めました。

 

費禕

 

ところが、延熙9年(246年)に蒋琬が亡くなったので、劉禅自らが国事を担当することになりました。なお、蒋琬の後任は費褘(ひい)です。劉禅と費褘は魏とは戦わずに、異民族に対して統治することをそそぎました。

 

ところが、延熙16年(253年)に費褘は偽って投降した魏の人物に殺されました。これで劉禅と費褘の共同経営が破綻したのです。

 

姜維北伐~蜀滅亡(253年~263年)

蜀の姜維

 

費褘(ひい)の死により台頭した人物がいました。姜維(きょうい)でした。姜維は諸葛亮の最初の北伐の時に降伏した人物でした。

 

姜維怨嗟の声

 

それ以後従軍しており、諸葛亮の実質的後継者でした。姜維は諸葛亮の死後も北伐の継続を主張していましたが、周囲の人物は彼の意見に反対していました。

 

理由は国力が諸葛亮の行った北伐でほとんど尽きていたからです。結局、周囲と意見が合わずに孤立した姜維でしたが、費褘の死をきっかけに北伐を強行しました。

 

殺害される姜維と鍾会

 

当然、こんなことを劉禅が支持するはずがありません。結局、姜維の北伐が成功することはなく、蜀は炎興元年(263年)に魏により滅ぼされました。

劉禅は戦わずに降伏しました。

 

その後の劉禅

君たちはどう生きるか?劉禅

 

劉禅は魏に降伏後は魏の都の洛陽に移住しました。降伏後の劉禅に関して、次のようなエピソードが残されています。

ある日のこと、司馬昭(しばしょう)が劉禅を宴会に招きました。司馬昭はそこで蜀の音楽を流しました。

 

司馬昭

 

蜀出身の部下は、みんな涙を流していたが劉禅は平気な顔をしていた。司馬昭は試しに尋ねてみることにしました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)

 

「蜀は恋しくないですか?」

 

すると、劉禅は答えました。

 

「いや、ここは楽しいので蜀は恋しくないです」

 

予想外の返答にびっくりした司馬昭でしたが納得もしました。

 

「なるほど、こんな男では諸葛亮が生きていても蜀はダメだったな。ましてや姜維なんかでは・・・・・・」

 

劉禅の無神経な返答に対して郤正(げきせい)という人物が劉禅に伝えました。

 

「今度、あんなことを尋ねられたら、『蜀が恋しいです』と答えられてください」

 

劉禅は承知しました。それからまた司馬昭が、同じ質問をしました。劉禅は蜀が恋しいことを伝えましたが、郤正のセリフをそのまま言っただけなので司馬昭は笑ってしまいました。

 

劉禅は魏が滅亡して、西晋(265年~316年)になっても生きており、泰始7年(271年)にこの世を去りました。

享年65歳でした。

 

三国志ライター 晃の独り言

晃(あきら)akira

 

劉禅が降伏後に言ったことは、本心だったのか分かりません。ただし、『三国志』では彼は賢明な宰相に政治を任せている時は道理に従う君主であったと評価されています。

 

劉禅と孔明

 

「賢明な宰相」が誰を指すのかは不明ですが、劉禅が根からの馬鹿ではなかったと分かります。そうなると、彼の降伏後の姿は自身の身を守るための仮の姿だったのかもしれません。

 

※参考文献

・渡邉義浩『諸葛孔明 (図解雑学)』(ナツメ社 2008年)

 

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