張飛は蜀(221年~263年)の将軍です。蜀の初代皇帝劉備に若い時から付き従って様々な功績を挙げました。この張飛に欠かせないエピソードは、何と言っても酒好きだったことです。しかし、史実の張飛が酒好きだったことは残されていません。
張飛が酒好きだったことは、明(1368年~1644年)の小説『三国志演義』の創作です。おそらく、庶民に親しみを持たせるための創作でしょう。そこで今回は『三国志演義』に重点を絞り、張飛の酒の失敗と成功のエピソードを紹介します。
張飛の酒による失敗 酔って徐州を奪われる
建安元年(196年)に劉備の領地の徐州に袁術が攻めてきました。徐州の長官である劉備と義弟の関羽は袁術の討伐に向かいました。
この時に留守を任されたのが張飛と曹豹でした。曹豹は先代の徐州長官の陶謙の時からの家来です。
また、娘が呂布に嫁いでいました。
呂布は当時、曹操や袁紹に追われて劉備に亡命していました。ところで、留守を任された張飛はとある約束を劉備としました。
それは留守中は飲酒厳禁でした。
ところが、人間は欲には勝てません。張飛は劉備との約束を破り、酒を飲みました。これを見た曹豹は張飛を注意しましたが、酔っ払いには何を言っても無駄でした。
逆上した張飛は曹豹に暴行を働きました。怒った曹豹は、娘婿の呂布と相談して徐州を奪いました。
張飛は劉備のところまで落ち延びました。
張飛の酒による成功(1) 劉岱を捕縛する
建安4年(199年)に劉備は曹操の世話になっていましたが袁術討伐を目的に出ていきました。そして袁術討伐後、今度は曹操と敵対します。
怒った曹操は劉岱を劉備討伐に派遣しました。
劉岱は正史では初平3年(192年)に黄巾の残党の手により殺害されていますが、『三国志演義』では生きている設定になっています。この時に迎え撃ったのが張飛です。
いくら挑発しても劉岱は出ません。仕方ないので張飛は部下と一緒に酒盛りを始めました。しかし、ここでも張飛は部下に暴力を振るいました。
「おいおい、さっきと一緒だろう」と言いたくなるかもしれませんが、これは張飛の策でした。
馬鹿なことをしている姿を見せて、劉岱を油断させたのです。もちろん、暴力も部下と示し合わせての迫真の演技です。こうして偽情報をもらった劉岱は、あっさりと張飛に捕縛されました。
張飛の酒による成功例(2) 張郃を破る
建安24年(219年)に張飛は魏の張郃と対峙しました。張郃は要塞を3つも築いて守りを固めたので全く出る気配がありません。
仕方ないので張飛は、いつも通りの酒盛り作戦を始めました。張郃も負けじと酒盛りです。
しかし、それで決着がつくはずがありません。一方、心配しているのは劉備でした。
「あいつの悪い癖が出なければよいが・・・・・・」と心配しました。
ところが、諸葛亮は落ち着いており、酒の増加を申し出ました。諸葛亮が言うのなら何かあると思った劉備は、酒を張飛のもとに送りました。
酒が届けられた張飛は「これで勝った」と内心喜びました。それ以降、張飛の酒盛りは勢いが盛んになりました。張飛のもとに酒が届けられた話を聞いた張郃は、油断している張飛を狙って夜襲を仕掛けました。
ですが、これは張飛の策でした。張飛は伏兵を仕掛けており、張郃を打ち破りました。
張郃はどうにか逃げ延びました。
三国志ライター 晃の独り言
今回は張飛の酒にまつわる話でした。
もちろん、張飛のお酒にまつわる話は史実ではなく『三国志演義』の創作です。
しかし、張飛の酒癖の悪さの失敗例はほとんどなく、逆に成功例が多いです。
本人も自覚していると分かります。ですが、部下にパワハラを働いていたのは史実にあります。
劉備は何度も諫めましが、本人には通じませんでした。
そのため、最期はあっけなく部下に殺されています。
劉備は張飛が死んだ時に部下が言う前に、「ああ、張飛が死んだか・・・・・・」と言ったそうです。
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