司馬懿が就任していた太尉とは何をするの?太尉はどの程度の権力がある?

2019年4月26日


 

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司馬懿

 

()(220年~265年)の青龍(せいりゅう)3年(235年)に司馬懿(しばい)太尉(たいい
)
に就任しました。詳細なことは記されていなので、この就任に深い意味は無いと思います。

 

 

司馬懿と諸葛亮孔明のトランプ勝負

 

 

おそらく今まで(しょく)(221年~263年)と戦ってきたことに対しての褒美と考えてよいです。ところで、この太尉(たいい)はどの程度の権力があったのでしょうか。そう言えば『水滸伝(すいこでん)』の悪役の高俅(こうきゅう)も太尉に就任しています。

 

司馬懿

 

そこで今回は「太尉(たいい)」という役職について解説致します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後漢の太尉

宣誓文を読み上げる藏洪

 

 

太尉は後漢(ごかん)(25年~220年)には存在していたようです。就任していたのは将軍ではなく文官(ぶんかん)です。

 

 

陳羣

 

 

職務は国防担当です。しかし、別に本人が戦場に立って指揮をすることはありません。日本の国防大臣が被災地に行って指揮しないのと一緒です。

 

 

陳羣

 

中国には「三公(さんこう)」というものがあります。

 

 

仕事に励んでいる游楚

 

 

行政担当の「司徒(しと)」、監察・政策担当の「司空(しくう)」、軍事担当の「太尉(たいい)」です。残念ながら、政治的権限は後漢(ごかん)の時期には衰えていました。

 

 

西洋が好きな霊帝

 

 

後漢の第12代皇帝の霊帝(れいてい)官職(かんしょく)の売買を奨励していたので、本来の役職の価値が落ちていたのです。曹操(そうそう)の父の曹崇(そうすう)は多額の金銭を支払って、太尉の役職を手に入れたようです。

 

まるで相撲の年寄名跡(としよりめいせき
)
のようです。

 

 

※年寄名跡とは、日本相撲協会の「年寄名跡目録」に記載された年寄の名を襲名する権利であり、俗に年寄株、親方株とも呼ばれる。

wikipedia

 

 

 



太尉消滅

曹操

 

建安(けんあん)12年(207年)に、曹操(そうそう)袁尚(えんしょう)を滅ぼして北方を制圧します。翌建安13年(208年)に曹操は丞相(じょうしょう
)
に就任します。

 

 

曹操丞相えらいねんで!

 

 

これは荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)()(222年~280年)の孫権(そんけん)を討つための就任です。この時に司徒の行政権、司空の監察・政策権、太尉の軍事権を全て自分の手に集中させます。この時に太尉は完全に政治的権限を失って、ただの名誉職に落ちてしまいます。後漢滅亡後も太尉の名称は残って就任するのは、いずれも功績がある家臣ばかりでした。

 

 

太尉に就任した人物一覧

賈詡

 

 

(1)曹操(そうそう)曹丕(そうひ)からの信任が厚かった賈詡(かく)

 

 

鍾繇(しょうよう)

 

 

(2)馬超(ばちょう)韓遂(かんすい)との戦いで活躍した鍾繇(しょうよう)

 

 

司馬懿

 

 

(3)蜀の北伐(ほくばつ)の防衛に成功した司馬懿(しばい)。上記の3人は特に有名です。

 

 

 

その後の太尉について 宋代

宋江、史進、李逵、魯智深、林冲、武松、楊志(水滸伝)

 

魏が滅んだ後の太尉も名誉職に変わりありません。代表的なものは(そう)(960年~1279年)を舞台にした小説『水滸伝(すいこでん)』の悪役の高俅(こうきゅう)が太尉に就任していたことです。『水滸伝』では高俅が軍の最高責任者として描かれていますが、実際の彼に全く軍事権はありません。宋代に軍政を担当していたのは、知枢密院事(ちすうみついんじ)同知枢密院事(どうちすうみついんじ)簽書枢密院事(せんしょすうみついんじ)の3つの役職でした。

 

 

 

童貫

 

 

『水滸伝』の時期に知枢密院事に就任していたのは、宦官(かんがん)童貫(どうかん)なので、彼に軍事権がありました。

 

 

童貫

 

 

太尉の役職は宋の滅亡とともに消滅してしまい、その後の王朝に受け継がれることはありませんでした。

 

 

【中国を代表する物語「水滸伝」を分かりやすく解説】

水滸伝入門ガイド

 

 

 

三国志ライター 晃の独り言 司馬懿が就いたもう1つの名誉職

三国志ライター 晃

 

以上が司馬懿が就任した太尉という役職の沿革についてでした。

 

 

司馬懿と曹爽

 

 

余談ですが司馬懿が就任した名誉職として有名なものは、曹爽(そうそう)が司馬懿を政治から遠ざけるために就けた太傅(たいふ)という役職があります。曹爽は司馬懿の同僚である曹真(そうしん)の息子です。

 

 

司馬懿、司馬師、司馬昭

 

 

司馬懿は自身の身を守るために、病気といってずっと屋敷に閉じこもっていました。曹爽もさすがに疑って李勝(りしょう)という人物を派遣して、様子を伺わせますが、司馬懿は難聴や認知症のフリをして、うまく切り抜けました。だまされた曹爽は油断してしまい、狩りに出かけますが、その隙を突いて司馬懿はクーデターを起こします。

 

 

司馬懿

 

 

これを司馬懿の「正始の政変」と言います。詳細はいつかまた話します。

 

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まだ漢王朝で消耗してるの?

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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