若い時の陳羣は何をしていたの?劉備・呂布に仕えていた若き頃の陳羣


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陳羣

 

陳羣(ちんぐん)()(220年~265年)の政治家です。中国の公務員試験である科挙(かきょ)以前に行われていた官吏登用法「九品官人法(きゅうひんかんじほう)」を考案した人物として有名です。父は陳紀(ちんき)と言って、後漢(ごかん)(25年~220年)では重職に就いていました。

 

荀彧

 

また、妻は荀彧(じゅんいく)の娘です。つまり、陳羣は生粋のエリートの家柄です。実はあまり知られていませんが、陳羣は若き日は劉備(りゅうび)に仕えていました。

今回は若き日の陳羣(ちんぐん)について紹介します。

 

自称・皇帝
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劉備に登用される陳羣

陳羣

 

前述したように陳羣(ちんぐん)は生粋のエリートの家柄です。また若い時から地元名士の間でも名前が知れ渡っていました。

 

腐れ儒者気質な孔融

 

孔融(こうゆう)は年少の陳羣を尊敬していたようです。

 

孔融と禰衡

 

ただし、素っ裸男の禰衡(でいこう)は認めていなかったようです。興平(こうへい)元年(194年)に陳羣は劉備(りゅうび)に仕えます。

 

陶謙と劉備

 

劉備は前年に、曹操(そうそう)徐州(じょしゅう)攻撃の際に救援に駆け付けました。そのため、徐州牧の陶謙(とうけん)から預州刺史(よしゅうしし)の位を与えられていました。

 

三国志の主人公の劉備

 

余談ですが「刺史(しし)」とは監察官です。しかし、実際の権限は「牧」と変わりないようです。話をもとに戻します。劉備はこの時に、陳羣を登用します。詳細な経緯は不明ですが、やはり陳羣の家柄を重視したのだと考えられます。

 

陳羣

 

この時代は家柄が何よりも重視されていました。家柄の良い人物を部下に引き入れることは、そこの主人の評価にも繋がります。また、陳羣も徐州を救ってくれた恩人として劉備に仕えたのでしょう。

 


 

劉備に意見が入れられず退職する陳羣

陶謙

 

さて、陳羣が劉備に仕えて間もなくして徐州牧(じょしゅうぼく)陶謙(とうけん)が亡くなりました。新しい徐州牧として誰を迎えたらよいか問題になりました。そこで白羽の矢が立ったのが劉備でした。もちろん劉備は断りました。

 

陳登

 

だが、孔融(こうゆう)や徐州の名士の陳登(ちんとう)が後押しをしました。

 

陳登と劉備

 

ところが、これに反対したのが陳羣でした。彼は劉備が嫌いだからという意味で反対したのではありません。当時の情勢を読んで判断したのです。

 

公孫サン(公孫瓚)

 

徐州の北には公孫瓚(こうそんさん)袁紹(えんしょう)、南は袁術(えんじゅつ)、西には曹操や呂布(りょふ)がいました。ましてや、曹操はいつ攻めて来るか分からない状況です。そんな不安定な情勢の時に、他所の土地から来て1年程度の人を新しい主にするのは、いかがなものかと陳羣は考えたのでしょう。

 

劉備を警戒する陳羣

 

ましてや孔融や陳登が劉備を徐州太守にするのは、芸能人や元スポーツ選手に政界進出をお願いするのと一緒です。要するに彼らは劉備ブームに乗じて頼んだのです。結局、断りを入れていた劉備ですが最終的には就任を承諾します。自分の意見を聞いてもらえなくて納得しなかったのか陳羣は劉備のもとを去っていきました。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの


 

呂布に仕える陳羣

呂布と劉備

 

劉備のもとを去った陳羣ですが、ニートというわけにはいかなかったのでしょう。間もなく新たなる主人に仕えます。それは呂布(りょふ)でした。呂布は興平(こうへい
)
2年(195年)に曹操に敗れたので劉備を頼って落ち延びました。

 

劉備と呂布

 

ところが、劉備が袁術討伐に行っている隙に徐州を奪いました。劉備はこの時、陳羣の言っていたことを後悔したようですが、すでに後の祭りでした。ちなみに呂布に仕えていた時期の陳羣についての詳細な内容は分かりません。


  

 

 

曹操に仕える陳羣

呂布のあっけない最後

 

建安(けんあん)3年(198年)に呂布は、劉備と曹操の連合軍により敗れて殺されました。この時、陳羣は父の陳紀(ちんき)と一緒に捕縛されて曹操のもとに連れてこられました。陳羣父子は曹操に出会うと頭を下げました。

 

陳羣

 

その後、陳羣は曹操に仕えます。妻が荀彧の娘なので、荀彧(じゅんいく)の推薦もあったのでしょう。もちろん、劉備のもとには2度と戻りませんでした。そして、魏で昇進を重ねていくことになります。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が若き日の陳羣の話でした。陳羣の考案した〝九品官人法(きゅうひんかんじほう)〟は学会でも長きに渡り研究の対象とされています。本人もここまでのものになるとは思わなかったでしょうね。

 

※参考文献

・渡邉義浩三国志 (図解雑学)

 

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