辺境でくすぶっていた董卓をわざわざ都に呼び寄せ、後漢の寿命を大幅に縮めることになったのが、今回の主役である袁紹と何進です。
しかし、陳寿曰く「記録に残っている中でもっとも残忍かつ暴虐非道」と評される、暴君・董卓を呼び寄せたのには、2人なりの理由と読みがあったのです。
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袁紹・何進が董卓を呼んだ理由その1 「何太后への圧力」
見出しにある通り知恵袋であった袁紹の進言に従う形で、何進が董卓をはじめとする地方の諸将を召し出したのは、異母妹の何太后をけん制するためですが、なぜそんな必要があったのでしょう。
当時朝廷では、蹇碩を筆頭とする宦官たちが霊帝の寵愛を立てに権力を独占しており、袁紹はもちろん大将軍である何進ですら、逆らうことができない情勢でした。
転機が来たのは189年、宦官らを重用していた霊帝が崩御すると袁紹・何進は、王美人との間に生まれた劉協(後の献帝)擁立をもくろむ、蹇碩一派に猛反発を開始。
対抗馬・劉弁の生母、何太后の存在もあり何進を邪魔者と考えた蹇碩は、霊帝生母の甥である董重と結託し、何進抹殺を企てるも計画が漏れて失敗します。この抹殺計画失敗を機に、後継代理戦争は袁紹・何進側有利に進み、同年5月13代後漢皇帝の座に劉弁が就き、立場を失した蹇碩は逆に殺されてしまいます。
これで一安心と袁紹&何進コンビは胸をなでおろしましたが、難産の果てに擁立した劉弁は先帝を上回る暗愚さをいかんなく発揮。
宦官たちは、ますます我が物顔で朝廷内を闊歩する羽目になり事態を重く見た袁紹は、「蹇碩一派は排除できましたが、この際いっそのこと宦官すべてを一掃しましょう。」と進言しますが、イマイチ何進はいい顔をしません。
なぜなら、平民に過ぎなかった何進が大将軍まで出世できたのは、ひとえに宦官の手引きで義妹が後宮入りし、霊帝の寵愛を受け皇后となったコネによるもの。
宦官たちに強く恩義を感じている何皇后から反対されるのは必定で、一掃作戦なんて始めると、下手をすれば自分の地位も危ないからです。
煮え切らない何進を説得すべく、懐刀・袁紹がひねり出した策こそ、「董卓ら諸侯を都に集め、その兵力をバックに何太后へ圧力をかける」というもので、「それは名案!」と両手を売った何進は、さっそく使者を各所派遣したのです。
袁紹・何進が董卓を呼んだ理由その2 「竇武・陳蕃の失敗」
中軍校尉に過ぎなかった袁紹はともかく、大将軍の地位にあった何進ならば、手持ちの軍勢だけで何太后の承諾を待たず、電撃的に宦官排除できそうなものですが、そう簡単にいかないのが宦官政治の恐ろしいところ。
宮廷内には宦官の情報網が隅々まで張り巡らされており、少しでも怪しい動きするとすぐに察知されてしまいます。そして、幼帝と太后を握る彼らによって「詔」というジョーカーを切られた場合、例え大将軍である何進であっても、たちまち逆賊として葬り去られるからです。
事実、168年に発生した宦官粛清計画の失敗は、竇太后の反対に実父で首謀者の竇武と、腹心である陳蕃が逆らえなかったことによって、宦官粛清が一部にとどまったのが原因。なかなか粛清が進まない間に、スピーディーに動いた生き残りの宦官たちが太后を脅し、両者を逆賊とする「詔」を発布した結果、竇武らは宮中の戦いで敢え無く敗死します。
つまり、袁紹と何進は太后の存在や力関係など、状況がよく似たこの宦官粛清失敗を教訓に、
- 外部勢力からの圧力で太后を翻意させ、宦官一斉粛清の承諾を得る。
- 宦官に切り札「詔」を切られ逆賊とされても、対抗できる兵力の確保。
という2つを目的に、地方の諸侯をかき集めたのです。歴史を知る我々にとっては、野心むき出しの董卓ら地方有力者が、おとなしく袁紹と何進の言いなりになるとは到底思えません。
しかし、少なくともこのおバカコンビはそう信じ、曹操らの反対を押し切って計画を実行、結果として稀代の暴君・董卓誕生に、一役買うこととなるのです。
三国志ライター 酒仙タヌキの独り言
さて、宦官粛清計画の首謀者である何進がその後どうなったかと言えば、緊迫する情勢を危惧し宮中への参内を控えるべき、との袁紹から忠告を軽視。慢心から無警戒に宮中へ参内した彼は、宦官が率いる兵に取り囲まれ、十常侍・張譲に散々罵倒された挙句、諸侯が都へ到着する前に命を落とします。
コネだけで成り上がった、何進らしい最期と言えばそれまでですが、袁紹・曹操・董卓らをはじめとする英傑たちが、雌雄を決する舞台を作ったと考えれば、
少しだけ評価してもいいかな~、なんて思うのは筆者だけでしょうか。
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