劉禅は蜀(221年~263年)の最後の皇帝です。後主とも呼ばれていますが、劉禅という呼び方が有名なので、この記事では劉禅で通します。
孫晧は呉(222年~280年)の最後の皇帝です。烏程侯とも呼ばれていますが、孫晧が有名なのでこの記事では孫晧で通します。両者に共通しているのは亡国の君主です。
しかし、亡国の君主にも違いがあります。どのような違いがあるのでしょうか?
今回は亡国の君主の劉禅と孫晧の違いについて解説します。
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劉禅と孫皓の政治手法
2人の違いで決定的なのは、政治手法です
『三国志』を読んでも、劉禅はリーダーシップを発揮することは、まずありません。
諸葛亮・蒋琬・費褘等の人物を徹底的に、登用して立ててやりました。
ちなみに、姜維のようなゴリゴリのモーレツ軍人や黄皓のようなおべっか使いの宦官でも登用していたことから、仕える人物は有能でも無能でも関係無かったようです。ある意味、度量の広い君主です。その点、孫晧は違いました。
孫晧は自分がリーダーシップを発揮しないと気が済まないタイプのようでした。
政治的決断を下すのは良いとしても、たかが部下の処刑ですら自分で決めていたほどです。
この手法は諸葛亮と変わりません。いつか過労死するレベルです。
現代の社会で置き換えたら、大企業の社長がパートの解雇を考えるのと一緒です。
劉禅と孫皓の頭脳はどっちが明晰?
劉禅と孫皓はどっちが頭脳明晰なのかと言われると、なかなか評価が難しいです。
頭脳と言われても、学問とかではありません。
まず劉禅についてです。
劉禅は降伏後は魏(220~265年)の都の洛陽にいました。
ある日、司馬昭は試しにこんな質問をしました。
「蜀は恋しくないですか?」
すると、劉禅は答えました。
「いや、ここは楽しいので蜀は恋しくないです」
予想外の返答にびっくりした司馬昭でしたが納得もしました。
「こんな男では諸葛亮が生きていても蜀はダメだな」
すると劉禅対して郤正という人物が劉禅に言いました。
「次にあんなことを尋ねられたら、『蜀が恋しいです』と答えてください」
時が流れて司馬昭が、同じ質問をしてきました。劉禅は蜀が恋しいことを伝えましたが、郤正のセリフをそのまま言ったので司馬昭は苦笑しました。
筆者はこれが劉禅の本心だったとは思えません。おそらく馬鹿のフリをしていたと思っています。
一方、孫皓ですが、彼にも降伏後の逸話が残っています。孫晧は即位当初は名君でしたが、次第に気に食わなかったら誰でも殺すサイコパス皇帝になりました。
その後、呉は天紀4年(280年)に西晋(265年~316年)に滅ぼされました。
降伏後、孫皓は司馬炎の側近の賈充から、こんな質問を受けました。
「あなたは人の目をえぐったり、顔の皮をはいだらしいが、それはなぜですか?」
孫晧は賈充に対して次のような答えを返しました。
「主君を殺して、不忠を働く人間に対する見せしめです」
賈充はドキッとして、何も言えませんでした。
実は賈充は魏の第4代皇帝の曹髦を殺した人物の1人でした。
実行犯ではありませんが、指令塔的存在です。孫晧は賈充の行いを知っていたので、皮肉を述べたのです。孫晧自身は口が達者であったことは有名であり、少し言われても切り返せる特技は持っていたのです。
三国志ライター 晃の独り言
以上が劉禅と孫晧についての比較でした。
後半の孫晧の話について筆者は疑っています。
あの話は北宋(960年~1127年)の司馬光が執筆した『資治通鑑』という書物に掲載されています。
司馬光は自分好みの話があったら、嘘くさくても「史実」として採用して、また改ざんするクセがありました。
実は南北朝時代(439年~589年)に執筆された『世説新語』という書物には同様の話が掲載されています。
ただし、孫晧に尋ねた人物は賈充ではなく司馬炎になっています。
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