本当に関羽は馬忠が討ち取ったのか?赤兎馬がつなぐ運命と馬忠の真実

2019年7月23日


 

関羽に見惚れる赤兎馬

 

軍神・関羽(かんう)呂布(りょふ)の乗っていた赤兎馬(せきとば)を操ります。曹操(そうそう)軍に乗りこなせる武将がいなかったことから、関羽の偉大さが推し量れます。

 

赤兎馬に乗った関羽に出会う周倉

 

しかし、馬忠(ばちゅう)は赤兎馬に乗ることができませんでした。それはなぜでしょうか。関羽から馬忠へと赤兎馬が移った経緯とともに二人のその後について紹介していきます。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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関羽と赤兎馬

赤兎馬

 

赤兎馬とは一日に千里(およそ4百キロ)を走ると言われる名馬。気性が荒く、乗りこなすのは至難の業でした。

 

赤兎馬を可愛がる董卓

 

もともと悪玉・董卓(とうたく)の馬でした。

 

赤兎馬にまたがる呂布

 

戦略の一つとして呂布に送られ、以後、赤兎馬は呂布の代名詞となります。

 

呂布のラストウォー 処刑される呂布

 

やがて、呂布が曹操の手に落ちると赤兎馬も曹操の元に。しかし、ここで難題が浮かび上がります。名馬だけに乗りこなすのが難しく誰も赤兎馬を扱える武将が曹操陣営にいなかったのです。

 

関羽に惚れる曹操

 

ある日、関羽の気を引こうとした曹操。

 

関羽が好きすぎる曹操

 

プレゼントとして「赤兎馬」を贈ります。

破顔一笑した関羽は「これでいつでも兄者(劉備)の元へ駆けつけることができます」と言って、ありがたく赤兎馬を手にするのです。

 

 

 

関羽の最期

関羽千里行 ゆるキャラ

 

赤兎馬に跨って戦場を駆ける関羽。軍神・関羽にも「死」はやってきます。それが臨沮(現在の湖北省襄樊市南漳県)でした。南郡の地を失ったことを知った関羽は、すぐに南へと引き返します。

 

呂蒙

 

帰る途中、何度も使者を呂蒙(りょもう)の元へ派遣。呂蒙も彼の使者を厚くもてなします。また、自ら手紙を書いて持っていったという話もあるくらいです。使者が戻ってくると関羽の家族の無事が確認されます。

 

関羽と周倉

 

やがて、関羽の部下は士気が低下し、散り散りになると麦城へと引き上げます。同じ年の12月、関羽は数十人の騎馬隊を率いて脱走を図ります。ところが、10キロもいかないうちに敵に取り囲まれてしまいます。

 

関羽を捕縛する馬忠

 

潘璋(はんしょう
)
配下の武将・馬忠が草むらに潜んでいたのです。長男の関平(かんぺい)とともに関羽は捕らわれ、討ち取られます。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

軍神・関羽の最期でした。孫権(そんけん)によって関羽の首は曹操の元に送られ、洛陽に葬られました。体は孫権が当陽に葬り、「当陽大王家」と呼ばれました。

 

関羽の青銅像

 

さらに関羽の魂は故郷に帰り、成都に関羽のお墓が建てられたのです。のちの関羽廟です。

 

 

赤兎馬はどうやって死んだのか?

馬忠(呉の人)

関羽を討ち取った呉の馬忠。報奨として関羽の愛馬・赤兎馬を賜ります。ところが赤兎馬は草をいっこうに食べてくれません。何も食べなければ、人間と同じように馬も死んでしまいます。

 

馬忠は「馬」という姓を持ちながら、赤兎馬に乗ることなく、死なせてしまうのです。関羽とともに赤兎馬も死を覚悟したのかもしれません。

 

 

馬忠のその後

ブチギレる劉備

 

関羽討伐で名を上げた馬忠。劉備が関羽を殺されたことに恨みを抱き、呉へと攻め入ってきます。

 

潘璋

 

馬忠は将軍・潘璋に従い、出陣。劉備軍の弓の名手・黄忠に大ダメージを与えます。

 

亡くなる黄忠

 

ほどなく黄忠(こうちゅう)は劉備軍の陣営で息を引き取ります。ところが関興によって将軍・潘璋も殺されてしまうのです。馬忠は態勢を立て直し、敵の援軍として駆け付けた張苞を見事に撃退します。

 

後を率いた馬忠は、撤退命令を下します。しかし、武将の糜芳と傅士仁は江渚に残ると言って聞きません。理由は「将軍・潘璋の仇を討つ」というものでした。糜芳と傅士仁は結託して兵をそそのかし、馬忠は暗殺されます。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

そして、馬忠の首は劉備の元へと送られるのでした。関羽だけでなく黄忠をも討伐した馬忠。それまで無名だっただけに劉備の喪失感は計り知れないものがあったのでしょう。

 

三国志ライター 上海くじらの独り言

三国志ライター 上海くじら

 

関羽は蜀を代表する武将。軍神と謳われた関羽でしたが、最期はあっけない幕切れでした。しかし、魏では首を手厚く葬り、呉では体を、蜀では関羽廟を立てて魂を祀りました。

 

関帝廟 関羽

 

こうした各国の対応を見ても分かるように関羽は誰からも尊敬されていたことが分かります。関羽の死後1800年が経っても「関帝廟」は残っています。そうした経緯を見ても後世に関羽を慕う人が多かったのでしょう。

 

一方の馬忠は部下に裏切られて寝ているところを殺されてしまいます。もし、偉大な人物であれば、是が非でも将軍・潘璋の仇を取りにいったことでしょう。ひとえに裏切られたといっても、馬忠の行動に卑劣さがあったことは否めません。

 

関羽を殺したのも待ち伏せ作戦ですし、真の力を発揮したと言い難いのも事実。

 

関興と張苞

 

ここは将軍・潘璋の仇を討つべし、という部下の気持ちを汲んであげるべきだったのかもしれません。関羽らを討伐した功績は称えられるものの自分たちのチームを統率するのは不得意だったようです。脚下照顧、身の回りから気を付けよとは呉の馬忠にあるような言葉です。

 

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呉の武将

 

 

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上海くじら

三国志との出会いは高校生の頃に読んだマンガの三国志。 上海留学中に『三国志演義』の原文を読む。 また、偶然出会った中国人と曹操について語り合ったことも……。 もちろんゲームの三国無双も大好きです。 好きな歴史人物: 曹操、クリストファー・コロンブス 何か一言: 覇道を以って中原を制す

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