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呂布が徐州戦で実力を発揮したら三国時代の到来は無かったのではないか?

2019年8月2日


 

呂布のラストウォー 処刑される呂布

 

三国志(さんごくし)の最強として名高い呂布(りょふ)。呂布は曹操(そうそう)徐州(じょしゅう)下邳城(かひじょう)で戦い敗北してしまいます。

 

赤兎馬にまたがる呂布

 

しかし呂布が下邳城で曹操(そうそう)軍と戦った際、自分の本領を発揮していれば、三国時代の到来はなかったかもしれません。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呂布の実力とは?

呂布

 

呂布の名前は知っているけど、彼の経歴が全然わかんないという人のために、呂布の生涯をざっくりと紹介していきましょう。

 

呂布

 

呂布は勇猛さを見込まれて、丁原へ仕えることになります。呂布は丁原(ていげん)と共に洛陽(らくよう)へ上り、宦官(かんがん)を撲滅する作戦に参加。その後呂布は洛陽へ入城した董卓(とうたく)から誘われて、丁原を殺害し、董卓へ仕えることになります。

 

曹操から水攻めを受ける呂布

 

呂布は董卓死後、諸侯の間を巡った後、曹操の領土を奪って戦いますが敗北。呂布は曹操軍に敗北した後、徐州の主・劉備(りゅうび)を頼って世話になりますが、留守の間に劉備が領有していた徐州を奪って再び群雄として活動を開始します。

 

呂布に殺害される丁原(ていげん)

 

人を殺害し、人の者を奪ってきた呂布ですが、曹操軍と下邳城で決戦するも、曹操軍の総攻撃を受けて、最後を迎えることになります。

 

上記がざっくりとですが、呂布の経歴となっています。

 

曹操と呂布

 

これでは呂布の経歴はわかっても彼の強さが分からないので、もう少し詳しくお話しましょう。多分皆さんは呂布=武勇に優れ、一騎打ちをすれば負けなしのイメージを持っている方が多いと思います。

 

ですが呂布はほとんど正史三国志で、一騎打ちをしていません。では一騎打ちをしていない呂布は、いったい何に強いのでしょうか。それは騎兵を率いて戦う事です。

 

 

 

騎兵隊を率いたらとんでもなく強い!?

張燕をボコボコにする呂布

 

呂布は若かりし頃、馬術と弓術に優れ、抜群の腕力を持っていたそうです。そのため故郷では前漢の将軍・李広(りこう
)
にあやかって「飛将」と尊敬されていました。

 

弓矢を構える李広

 

ついでにですが、李広はキングダムの主人公・李信(りしん)の子孫なので、豆知識としてキングダム好きにドヤ顔で教えてみてください。話がずれました。元に戻します。呂布は自身が馬術と弓術に優れていた事もあり、騎馬隊を率いて戦う事にも長けていました。

 

呂布、黒山賊

 

一例として袁紹軍に呂布が加わり、黒山衆と戦った時の戦があります。呂布は袁紹(えんしょう)の元で世話になると袁紹から黒山衆討伐戦に参加するように依頼を受けます。呂布は袁紹の依頼を受けて、黒山衆討伐戦へ参加。

 

生卵を飲む呂布

 

呂布軍は少数精鋭の騎馬隊を率いて、一万数千の黒山衆の軍勢へ突撃を何度もかけ、ついに黒山衆の軍勢を打ち破ることに成功します。このエピソードから呂布率いる騎馬隊がとんでもなく強かった事がお分かりになったと思います。

 

徐州の敗北は騎馬隊を率いなかったから??

裏切った呂布

 

呂布は劉備の領土・徐州を奪いますが、曹操軍の総攻撃を受けて敗北してしまいます。この徐州戦で呂布は下邳城に籠城して(魏氏春秋や英雄記による)ほとんど城外で戦をしませんでした。

 

朝まで三国志 曹操と呂布

 

どうして呂布は城外に出て曹操軍と決戦をしなかったのか。

 

高順が呂布に疎んじられた理由

 

それは呂布の奥さんと陳宮高順(こうじゅん)の不仲にありました。

 

陳宮

 

呂布の参謀・陳宮は「曹操軍は遠方からわざわざ下邳城へやってきているため、疲労困憊にあるでしょう。

 

そこで殿には騎兵を率いて出陣し、敵軍へ攻撃を仕掛ければ簡単に撃破することができます。」と呂布へアドバイス。呂布は陳宮のアドバイスを採用しようとしていました。だが呂布の奥さんは「殿が城外へ出陣した場合、陳宮と高順は不仲で、互いに力を合わせて城を守ることが出来ないでしょう。

 

そうなれば私が再び殿に会えなくなってしまいます。」と呂布へ心配事を吐露。呂布は奥さんの言葉を耳にしたため、城外へ出陣することに疑問を持ってしまい、曹操軍へ城外決戦を挑むことをしないで、籠城戦をしてしまいます。

 

曹操に捕らわれる高順、呂布、陳宮

 

もし陳宮と高順が不仲じゃなければ、呂布自身が騎馬隊を率いて曹操軍と決戦していたはずです。呂布率いる騎馬隊と曹操軍が一大決戦を行えば、一度で決着をつけることができず、兗州で曹操軍と戦った時と同じように長い期間、決着をつけることが出来なかったでしょう。

 

呂布軍と曹操軍が長い間、戦いに決着をつけることが出来なければ、河北を統一した袁紹軍が曹操の領土へ向けて南下していた可能性があります。曹操は袁紹軍が領土へ攻撃をしてくれば、呂布との戦いにかまっていることができなくなり、強制的に撤退しなくてはなりません。

 

もし曹操軍が撤退すれば、呂布軍の大勝利となり、その後曹操軍を追撃して壊滅的な損害を与えることもできますし、下邳城へ帰って損耗した兵士たちの傷を癒した後、曹操の領土へ一大攻勢をかけることもできます。

 

このように呂布が騎馬隊を率いて曹操軍へ決戦を挑めば、曹操の領土が大幅に削られ、もしかしたら三国時代が生まれることが無かったかもしれません。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

ここでもIFストーリになってしまうのですが、呂布が群雄として独立するのではなく、曹操の元で騎兵隊長として仕官していればどうなっていたのでしょうか。もし曹操の元へ呂布が仕え、騎馬隊の隊長となっていれば、天下統一を曹操の代で、できたかもしれません。

 

呂布も曹操へ捕まった際「殿(曹操)が歩兵を率いて私が騎兵を率いて群雄と戦を進めていけば、必ず天下統一できるでしょう」と言っています。このことから呂布は騎馬隊を率いて戦場で活躍する自信があった事が伺えます。

 

そのため曹操が歩兵を率い、呂布が騎兵を率いてれば、官渡の戦いで袁紹軍にあれほど苦戦しないで済んだかもしれませんね。でも曹操が呂布を用いる場合、呂布の心が裏切りも奪う事も知らない清い心で、忠誠心の塊であることが第一条件になりますので、ご注意を。

 

■参考文献 正史三国志魏書など

 

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呂布対項羽

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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