三国時代に活躍した武将達の多くは「孫子の兵法書」を読んでいました。例えば魏の曹操は「孫子の兵法書」を何度も読み、自らの注訳をつけて「魏武注孫子」としてまとめた書物を編纂。
また曹操軍の軍師・郭嘉は烏桓討伐戦で孫子の兵法書に記載されている「兵は拙速を尊ぶ」を応用し、曹操へアドバイスをしています。このように三国時代の人々は「孫子の兵法書」を応用していますが、魏の司馬懿も「孫子の兵法書」を応用していたのでしょうか。
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孫子の兵法書はどんなことが記載されてるの?
戦術が記載されている書物のほとんどが中国の春秋戦国時代に書かれています。例えば呉起が書いた「呉子」や太公望呂尚が書いたと言われる「六韜」などです。三国時代は上記の書物も利用されていましたが、これらの書物よりも三国時代の武将達は違う書物を読んで戦について学んでいました。
三国志の武将達が読んでいた書物は「孫子の兵法書」です。
司馬懿は孫子の兵法書を応用していたの?
晋の基礎を作り上げ、諸葛孔明のライバルとして知られる司馬懿。彼も「孫子の兵法書」を応用して、戦に用いたことがあったのか調べてみると司馬懿が「孫子の兵法書」を応用していた事が判明しましたので紹介しましょう。
公孫淵の本拠地へ
遼東半島を統治していた公孫氏。魏の明帝の時代に遼東半島を統治していた公孫氏は公孫淵と言います。
彼は毌丘倹が魏の明帝・曹叡の名代として使者として軍隊を率いて中央政府へ出頭するように命令されます。公孫淵はこの命令を拒否して毌丘倹を攻撃して撃退し魏から独立。魏の曹叡は公孫淵が独立した事を知ると蜀との戦いで活躍した司馬懿を呼び、公孫淵討伐を命令します。
司馬懿は毌丘倹・牛金や胡遵ら諸将を率いて公孫淵討伐へ向けて出陣。司馬懿は遼隧に到着すると公孫淵が築いた防衛拠点に別働隊を編制し駐屯させます。そして司馬懿率いる本軍は公孫淵の居城・襄平へ向かって突き進んでいきます。
防衛拠点を守っていた公孫淵の将軍は司馬懿率いる本隊を攻撃するため出陣。司馬懿は軍を反転させ、防衛拠点を出撃してきた軍勢を別働隊の軍と協力して撃破します。こうして司馬懿は後顧の憂いをなくして軍勢を進ませていきます。
「兵は詭道なり」を応用
公孫淵は司馬懿率いる軍勢が防衛拠点の軍勢を破った事を知って、居城・襄平に籠城。司馬懿は公孫淵の居城・襄平に到着すると早速城を包囲しますが、大雨がふって平地に水が溢れ、魏軍が動揺してしまいます。司馬懿は大雨によって魏軍が動揺しても包囲を続けるように諸将へ命令。
司馬懿の命令を聞いた陳珪は「孟達を討伐した時は速戦を行い、たった数日のうちに孟達を討伐しました。なぜ今回は孟達討伐の時のように速戦を心がけず、ダラダラのんびりとしているのでしょうか」と司馬懿へ質問。司馬懿は陳珪へ「孟達は兵士はあまり多くなかったが、兵糧を一年分保有して籠城していた。
我らは兵士の数は孟達軍を圧倒していたが、兵糧が数ヶ月分しかなかった。そのため私は孟達を素早く撃破するため、兵士の犠牲を顧みず攻撃を行ったのだ。今回は公孫淵の方が我らよりも多く兵を持って籠城しているが、我らよりも持っている兵糧が少ない。
私たちは公孫淵よりも少ない兵士しか持っていないので、無理攻めを行うよりもじっと我慢して奴らの兵糧が無くなるのを待てばいいのだ。戦いとはいかに人を騙すかが重要であり、公孫淵は長雨と魏軍よりも多い兵数を持っているから、我らが攻撃できないと考え、安心しているのだろう。
我らは敵を怖がらせないで、安心させていれば必ず我らに勝機がやってくる」と状況を説明。陳珪は司馬懿の言葉を聞いて納得。公孫淵は司馬懿が大雨を気にせず包囲を続けているため、城内に兵糧が無くなってしまいます。そのため襄平の城内は人が人を食う凄惨な状況になってしまいます。
公孫淵は司馬懿に降伏の使者を送るも拒否されてしまい、何とか包囲陣を打ち破って逃亡しようと魏軍へ攻撃。司馬懿は公孫淵が出撃して包囲陣を突破した事を知り、大軍で追撃し公孫淵を殺害します。こうして司馬懿は「孫子の兵法書」に書かれている兵は詭道なりを応用して公孫淵討伐を成功させるのでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
三国志の多くの武将が「孫子の兵法書」から戦術学んでいますが、現代の経営者たちも「孫子の兵法書」から色々な事を学んでいます。時代を超えて応用することのできる「孫子の兵法書」。
今回この記事を書いてじっくりと孫武が残した兵法書を読み、学んでいきたいと思いました。
■参考文献 正史三国志魏書など
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