馬超の従弟の馬岱。耳にしたことのある読者もいるかと思います。しかし、ミステリーは生没年が不明なこと。生まれた年が分からないことは三国志の武将によくありますが、亡くなった年が分からないというのは稀です。
一方で、馬岱のお墓は今も四川省に残っているという事実。史実を頼りに馬岱の最期を推理してみましょう。最初に断っておきますが、あくまでも推理なので、if三国志として楽しんでください。
関連記事:馬岱は馬超と蜀に降ったのに何故龐徳だけ漢中に残った?
牛金アタック説
魏延討伐の成功を祝して位を賜った馬岱。亡くなった諸葛亮が行っていた北伐の続きとして、魏へと侵攻します。
当時の魏の支配者は「司馬懿」。曹操、曹丕らは亡くなり、司馬コンツェルンが牛耳を執っていたのです。
その司馬懿から馬岱討伐のミッションを受けたのが「牛金」です。見事、馬岱軍を倒した牛金は1,000人を超える敵兵の首を取りました。その時に一緒に亡くなったのではないかとする説です。しかし、少なく見積もっても馬岱の兵数は1,000名はいたことになります。
ボスの馬岱が討ち取られるまで戦ったとは思えません。理由は魏は馬岱軍を撃退するのが目的で馬岱の首まで取る必要はなかったからです。その証拠に馬岱軍との戦のあと、司馬懿は遼東の平定へと乗り出しています。
遼東とは現在の中国東北部、遼寧省(省都・瀋陽)です。魏の国から見ると北東に位置し、南西にある蜀(現在の四川省)とは正反対。もし、馬岱の攻撃が凄まじかったら、遼東へは兵を出さないでしょう。
楊儀サポート説
馬岱出世のきっかけとなったのは楊儀と対立した魏延を討伐したからです。実は蜀で内乱が起きており、諸葛亮が亡くなった後、権力闘争が起きました。その首謀者が楊儀と魏延の二人です。
馬岱の活躍で魏延がいなくなったため、楊儀は蜀のトップになれると思っていました。しかし、死に際に諸葛亮が後継に指名したのは「蒋琬」。楊儀は、トップの器ではなかったのです。
様々な噂が飛び交う中、楊儀は平民に格下げされます。そして、「漢嘉郡」へと落ち着くのです。その際に恩義を感じた馬岱がお供をして一緒に暮らし、亡くなったとする説です。もちろん、楊儀の妻や子も一緒でした。
しかしながら、その時の楊儀はノイローゼ気味で、蒋琬を深く恨んでいました。そんな精神状態の人物についていくのは身内ぐらいです。さらに楊儀は自殺し、妻と子は朝廷からの使者の手を借りて後に蜀へと戻っています。楊儀サポート説も説得力には欠けるでしょう。
蒋琬陰謀説
最後は蒋琬陰謀説です。当時は戦も少なく、三国(魏・呉・蜀)は比較的落ち着いていましたから、朝廷内での策謀が盛んに行われていたはずです。蒋琬は諸葛亮から正当に後継者として指名されたものの、楊儀の恨みを買っていました。
また、楊儀の命によって名を成した馬岱は邪魔な存在です。楊儀の指示で自分の命を狙ってくることもあるでしょう。しかし、同じ蜀という国内での話しですから、大っぴらに倒すことはできません。そうなると、暗殺しか選択肢がないのです。
馬岱に兄弟や従兄はいたものの、みな亡くなっています。未婚だったので、妻や子どももいません。仮に殺されても、それほど影響はなかったのです。まず蒋琬は北伐と称して、馬岱を魏の国へと向かわせます。
この魏の国、つまり異国で戦うことが重要なのです。スパイを放って馬岱を殺害しても場所が蜀の領内だと暗殺だと疑われますが、魏の領内だと敵の手に掛かったと錯覚させることができます。しかも、北伐という名目で侵攻しているわけですから、かなり危険な戦いです。
馬岱の腕っぷしが良くとも、命を落とす危険は十分にあります。次に蒋琬は馬岱の兵に息のかかった人物を10名ほど紛れこませます。そして、隙を見て命を取るように密命を与えて、賄賂を握らせます。
惨敗して帰ってきた馬岱の兵を蒋琬が出迎え、伝言で皇帝の劉禅に伝えればいいのです。普通は将軍が皇帝に直接、戦果報告を行うのが一般的でした。しかし、当時の蜀で国政を執っていたのは蒋琬。あの諸葛亮が指名した人物の言葉とあれば、皇帝も疑わないでしょう。
こうして、北伐に乗じて馬岱を魏の地で暗殺するという推理が完成しました。
三国志ライター上海くじらの独り言
馬岱がそれほど有名ではないとは言え、亡くなった年が分からないのはミステリーです。しかも四川省の広漢市には「馬岱の碑」を政府で保管しているのですから、ますます謎が深まります。もしかしたら、その理由は蜀の誰かの手によって暗殺されたからなのかもしれません。
参考資料:
「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
関連記事:馬岱(ばたい)ってどんな人?実は記録がほとんどない馬超のイトコ