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孫堅が洛陽で拾った玉璽の話は呉による捏造だった!?

2019年9月4日


 

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呉の孫堅

 

孫堅(そんけん)は呉(222年~280年)の初代皇帝である孫権(そんけん)の父です。黄巾の乱・董卓(とうたく)討伐に参加して活躍しますが、37歳の若さで戦死したので三国時代(220年~280年)の到来を見ることが果たせませんでした。

 

玉璽を見つけた孫堅

 

さて、孫堅は洛陽駐屯中に井戸の中から皇帝の玉璽(ぎょくじ
)
を発見します。この話は小説『三国志演義』でも有名ですが、本当の話なのでしょうか?

今回は孫堅の玉璽の話を解説します。

 

自称・皇帝
当記事は、
「孫堅 洛陽」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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洛陽までの進軍

孫堅、孫賁

 

初平元年(190年)に諸侯は朝廷を牛耳っている董卓を討伐するために義勇軍を立ち上げました。孫堅も挙兵して洛陽まで進軍!孫堅は途中でかつて、自分に対して無礼な態度をとった荊州刺史の王叡(おうえい)と董卓討伐に非協力的な南陽太守の張咨を討ちます。

 

海賊を討伐する孫堅

 

袁術(えんじゅつ)と合流して兵の調練を行うと再び洛陽まで出発!途中で董卓軍から攻撃を受けて苦戦しますが、陽人の戦いでは董卓軍の華雄(かゆう)を打ち取りました。功績を挙げた孫堅ですが、部下からの讒言を受けた袁術が急に兵糧提供を拒否。

 

袁術、孫堅(犬)

 

怒った孫堅は袁術に面会すると、「私がわが身を投げだして顧みないのは、国のためであり、袁術殿の家の仇討ちでもあります。私は董卓に個人的怨恨は無いのに、袁術殿はつまらない言葉で私を疑うのですか?」と注意します。

 

袁術

 

袁術の叔父の袁隗は董卓により殺されていました。孫堅は他人のために戦ってあげていたのです。さすがの袁術も自分のミスに気付いたらしく、反省して兵糧を送りなおします。

 

 

 

洛陽における玉璽の発見

歴代皇帝の墓を暴こうとする韓遂の兵士

 

こうして洛陽に入城した孫堅ですが、残念なことに董卓はすでに献帝を連れて長安に逃げたあとでした。董卓は逃げる時に歴代の皇帝の墓を暴いて財宝を略奪しており、墓はボロボロになっています。

 

孫堅

 

そこで孫堅は軍を洛陽に駐屯させると皇帝の墓の修復を行いました。現在で例えるなら復興ボランティアです。荒廃した洛陽の光景に孫堅は涙を流したと言われています。さて、孫堅は駐屯していた近くの井戸から不思議なものを見つけました。

 

朝になると五色の気が井戸から立ち上ると噂になったのです。おそらく朝日の光が井戸の水に反射したのだと思いますけど・・・・・・

 

噂を聞いた孫堅は早速、井戸を捜索したところ奇妙な印鑑を見つけました。龍の飾りを施した黄金製の印鑑であり、「受命于天 既寿永昌」の8字が刻まれていました。どうやら上記の印鑑は、かつて袁紹が宦官大虐殺を行った時に紛失した皇帝の玉璽だったようです。

 

孫堅は玉璽を持ち帰ってしまいました。

 

玉璽の話は孫呉政権による偽作!?

裴松之(歴史作家)

 

孫堅が玉璽を拾った話は『三国志』に注を付けた裴松之(はいしょうし)が史料として採用した『呉書』という書物に記載されています。『呉書』は呉の最後の皇帝である孫晧に仕えた韋昭が執筆したものであり、名前の通り呉の歴史書です。

 

孫晧(孫皓)

 

残念ながら韋昭(いしょう
)
孫晧(そんこう
)
に処刑されたので未完の書物となりました。

さて、『呉書』の玉璽の真偽について実際はどうなのでしょうか?

 

晋蜀の産まれ 陳寿

 

正史『三国志』本文にこの話は登場しないので、陳寿(ちんじゅ)は信用していないのは間違いありません。また、注を付けた裴松之もこの話を全く信用していません。なぜなら、孫堅の玉璽を拾った行動が今まで後漢(25年~220年)に忠義を誓っていた理念に反するからです。

 

韋昭(いしょう)

 

それでは、なぜ韋昭はこのような信用し難い話を記したのでしょうか?

おそらく『呉書』に孫堅の玉璽の話を記すことによって、黄巾の乱以降の混乱を沈めて後漢を継ぐ王朝は呉と決まっている、と箔を付けたかったのです。

 

正史三国志・呉書を作り上げる韋昭(いしょう)

 

つまり、玉璽の話は韋昭によって・・・・・・というよりも彼が仕えた呉によって創造された架空の物語でした!

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

孫堅が玉璽を見つけた→各地の軍閥を平定→呉の天下統一。

 

このように最初から流れが分かっており、民衆受けしそうな歴史観を「予定調和歴史観」と呼びます。韋昭が『呉書』を執筆した目的は、呉の天下統一と正統性からと判明しています。ただし、歴史書としては問題点があり、好みで列伝を作っていました。

 

歴史書としては偏りがあります・・・・・・

 

晋の陳寿

 

そのため、陳寿は呉の歴史書を執筆する時に『呉書』のみに頼らず、他の史料も使用していました。ところで記事も終わったので、本当のことを話しましょう。

 

筆者はこの記事を書き終える2日前まで、孫堅の玉璽話を実話と信じていました。

調べたらウソと分かったので、ショックでしたけど・・・・・・

 

ロマンがあっていいのですけど(笑)

 

※参考文献

 

・満田剛「韋昭『呉書』について」(『創価大学人文論集』16 2004年)

 

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三国志(220年~280年)・宋代(960年~1279年)・水滸伝に興味がある読者の皆様は、何か一言や疑問を残していただけると嬉しいです。

 

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