蜀(221年~263年)の建興12年(234年)に丞相の諸葛亮はこの世を去りました。後を継いで丞相になったのは諸葛亮の部下の蔣苑でした。実はあまり知られていない話なのですが、蔣苑も諸葛亮と同じく魏(220年~265年)への北伐を行っています。
蔣苑と言えば魏への北伐は行わずに政治に専念していた印象があります。しかし、これは小説『三国志演義』の影響によるものです。そこで今回は蔣苑の北伐とその時の姜維と費禕の考えについて解説します。
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漢中に出陣!
延康元年(238年)に蒋琬は漢中に出陣しました。ちょうど遼東で公孫淵が魏に反乱を起こしていた時なので好機と捉えたのでしょう。もちろん突発的な考えではありません。蔣苑は諸葛亮が行った遠征の方式では道が険阻で運送が困難であることから、兵糧が長続きしないと前から考えていました。
「陸上が難しいのなら、水上から攻めよう!」と蔣苑は結論を出します。
蒋琬の北伐プラン
蜀の延熙4年(241年)に魏では大事件が起きていました。全琮・諸葛瑾・諸葛恪・朱然・歩隲などの名だたる呉(222年~280年)のメンバーが魏に攻撃を仕掛けていたのです。呉は手強く最終的には司馬懿が出動して撃退することになりました。
蔣苑はこのスキに乗じて、魏興・上庸の攻略を目指して漢中から出陣しました。姜維には別動隊として涼州に出撃してもらいます。さて、これは一見すると蜀と呉の共同作戦と思われるかもしれません。しかしながら、両者は全く無関係の偶然です。それどころか蔣苑はこの偶然を利用しています。
蔣苑のプランは魏の攻撃だけではなく、呉と魏が争っている間に、水上で移動して長きに渡り劉備と孫権の間で問題になっていた荊州も奪うことでした。
いわゆる「漁夫の利」です。
まさに、諸葛亮ですら考えもしなかった大胆な作戦!これが成功すれば、間違いなく大勝利・・・・・・それどころか、歴史の教科書には蔣苑の名前が載っていたでしょう。でも、運命は残酷なものでした。
北伐の失敗と費禕と姜維の考え
残念ながら、蔣苑の北伐は失敗に終わります。その理由は蔣苑が病気になったからでした。やはり諸葛亮の後継事業となると、かなりの激務だということが分かります。しかも、蔣苑に北伐を断念させた人物がいたのです。
それはなんと味方である姜維と費禕でした。彼らは蔣苑に北伐中止を頼みました。2人が蔣苑の北伐をどう思っていたのか史料は何も語っていません。だが、費禕は後年、姜維に次のように語っています。
「私たちは丞相(諸葛亮)にすら及ばない存在だ。丞相ですら北伐は無理だったのだぞ。まずは国や民を治めることが大事だ。戦をするのは能力ある人物の登場を待ちましょう・・・・・・」
とにかく、費禕は戦に対して消極的な平和主義だったことが分かります。一方、姜維はどうでしょうか?彼は平和主義ではありませんが、北伐のルートが諸葛亮ルートを踏襲しているので、蔣苑の方針には反対と考えられています。
延熙6年(243年)に費禕は大将軍・録尚書事(宰相)となります。さらに翌年、姜維も録尚書事に任命されます。蔣苑はまだ存命していましたが、その時点で宰相が決まることは彼の病気が重篤だっと分かります。そして、蔣苑は病気が快復することなく延熙9年(249年)にこの世を去りました。
三国志ライター 晃の独り言
蔣苑の後を継いだ費禕はその後、自分から魏に対して北伐を行うことはありません。
北伐に積極的だった蔣苑に中止を要請したのも、蜀の軍事力では到底勝利は得られないと費禕独自の分析があったと考えられます。また、蔣苑の病状を見て、とてもじゃないが北伐なんて続けられないと思ったのでしょう。
費禕に悪気は無かったと筆者は考えています・・・・・・
読者の皆さんはどう思われますか?
※参考文献
・満田剛「蜀漢・蔣苑政権の北伐計画について」(『創価大学人文論叢』18 2006年)
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【北伐の真実に迫る】