建安七子とは、孔融・陳琳・徐幹・王粲・応トウ・劉楨・阮ウら七人の総称であり、彼らの作りだした文学は建安文学と呼ばれています。
その文学の後援者でもあり同時に詩人として評価の高かった曹操、曹丕、曹植をまとめて建安の三曹七子と呼びます。この建安七子に関わった、貢献した著名文学者たちもまた多いのですが、その中に「呉質」という人物がいます。
今回はこの呉質について紹介したいと思います。
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呉質ってどんな人?
呉質は曹丕の四友、繰り返しますがとても仲良しなお友達の一人です。
正史に彼に関しての記述自体は少ないのですが、残された文献からは「頭が良いが、身分が低い」と評価されています。曹操に仕えることになった呉質は非常に曹丕に気に入られ、なんとあの司馬懿、陳羣と並べられるほどになります。
曹丕は良く冷淡な人物と言われますが、彼は呉質にいくつもの手紙を残しています。これは曹丕のイメージを一変させる内容なので、ちょっと紹介していきましょう。
呉質へ度々手紙を送っていた曹丕
さて曹丕の手紙を全文載せるとそれだけで凄く長くなってしまいますので簡単に要約を。
「貴方と離れ離れになってもう四年。三年会えなかっただけでも辛いのにそれよりも長いなんて耐えられない!手紙だけじゃ私の心は安らげないよ……」
ここだけでも「冷淡な文帝」イメージが変わってしまいそうですが、ここから自分は才能がないこと、太子としてやっていくことへの不安、そして耐え難い孤独を吐き出します。他人に弱みを見せるとなると、よほど信頼している相手でないとできませんよね。
それが皇帝ともなれば尚のこと、簡単に弱みを見せる訳にはいきません。しかしそれでも曹丕が度々こんな手紙を送るような、そんな関係だった……そう考えるととても得難い、尊い関係の友人だったとは言えないでしょうか。
呉質の「珍」活躍っぷりをご覧あれ
さて呉質の人となりですが、一言で表現すると「小人物」でしょうか。もうちょっというと「性格の悪い小人物」です。
「好」人物ではなく「小」人物、ここ重要なので覚えておいて下さい。
彼のエピソードはいくつかありますので紹介しましょう。ある日曹操が遠征することになりました。そこで呉質は父を見送る曹丕に「取り合えず泣いときましょう!」と言い出します。
さて当日、見送りの場で弟の曹植は曹操を称える詩を贈る中、黙って曹操を見送り涙を流す曹丕を見て人々は「父上との別れを嘆くなんて……誠実なお方!」と感動したということです。これぞパフォーマンスの勝利。
またある日の呉質のエピソード。曹丕は傍に呉質がいないと安心できず、遠い土地にいる彼に手紙を送ります。何を考えたか呉質は箱に入って秘密裏に曹丕の所に通うのですが……この箱入り娘ならぬ、箱入り呉質を疑ったのが曹植の友人の一人、楊脩。
彼は曹操に「呉質は任務ほっぽり出して曹丕様のとこに行ってます!きっと何か企んでますよ!」と告げ口しますが曹操は取り合わず。自分が疑われていると知った呉質、なんと曹丕に絹の入った箱を送ります。今度は箱を調べた曹操、楊脩の告げ口が間違っていたと思い「楊脩は息子を陥れようとしているのでは?」と逆に楊脩を疑ったといいます。
呉質、賢いですよね……ええ、賢いの頭に「ずる」とか「悪」とか付きそうなのはちょっと否定できませんが。それでも周囲に曹丕を認めさせたり、曹操を欺くだけでなく楊脩を逆に利用して陥れたり、彼自身も非常に頭の回る人物であったことは疑うべくもありません。
なんとも言えない小物臭さが呉質の魅力
さてそんな呉質は曹丕に気に入られていたのでバンバン出世しますが、文帝早逝。
その後、同じく四友に並べられていた陳羣が行政トップ大臣の位置に出世しました。陳羣も友の一人なんだから協力して頑張ると思いますか?残念ながら呉質はそんな人物ではありませんでした。
なんと呉質は悪口を曹叡に吹き込みまくり、陳羣を引きずりおろそうとし始めます。しかし曹叡が陳羣は本当に悪質な人物なのか、と周囲に尋ねると「呉質の言っていることはみんな間違い」と声を揃えて反論されてしまうのでしたとさ。
三国志ライター センのひとりごと
いかがでしょうか、呉質、とても小物臭い人物ですよね。
だけどそんな呉質にだけ文帝ともあろう人物が内心をさらけ出すほど信頼していた……そう考えると、その小物臭さこそ呉質の魅力だったのではないでしょうか。なおそんな呉質の送り名は「醜侯」……ちょっとかなり?周囲に嫌われていたのかもしれませんね!
それでも上司に好かれていただけで出世したとは言い難い呉質の魅力、伝わりましたでしょうか?
参考文献:
文選 魏文帝与呉質書
参考記事:
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