黄忠は蜀(221年~263年)の将軍の1人です。正史『三国志』では関羽・張飛・趙雲・馬超と同じ巻に列伝が記されています。そのため、小説『三国志演義』では最強の「五虎大将軍」の1人として扱われています。
黄忠は『三国志演義』では夷陵の戦いで戦死しています。もちろん、これは史実には無く彼に豪傑として死んでもらうための創作です。そこで今回は『三国志演義』をもとに黄忠が参加した夷陵の戦いについて解説します。
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劉備 関羽の弔い合戦に行く
建安24年(219年)に荊州に駐屯していた関羽は樊城の曹仁を攻めます。しかし、曹操が秘密条約を結んだ呉(222年~280年)の裏切りにあって関羽は戦死しました。
激怒した劉備は蜀の章武元年(221年)に呉の征伐に赴く決意をします。これには趙雲や諸葛亮が反対をしました。
趙雲は「今は呉を討つ時ではなく、魏(220年~265年)が先です。魏を討てば呉は自然に滅びます・・・・・・」と劉備を諫めます。最初は劉備も納得しましたが、張飛が劉備を説得したので結局、征伐が決定しました。
張飛暗殺と張苞・関興の登場
しかし、戦の前にとんだアクシデントが発生!なんと張飛が部下の范疆・張達の手により殺されたのです。張飛は日頃からに部下に暴力を働いており、劉備は再三に渡り注意をしていましたが、それが張飛の心に伝わることはなかったようでした。関羽・張飛の義兄弟が欠けてしまい、桃園3兄弟はいよいよ劉備1人・・・・・・
どうしようと思っているところに、新たなる戦力が登場します。それは関羽・張飛の息子の関興と張苞です。彼らは父の代わりに劉備の救援に駆け付けたのです。喜んだ劉備は2人を戦列に加えます。
こうして呉との戦いが始まりました。夷陵の戦いと呼ばれています。まず最初に迎え撃ったのは呉の孫桓と朱然です。だが、すぐに関興と張苞により打ち破られてしまいます。
朱然と孫桓は今度は水軍と陸軍に分けて行動しますが、またもや敗北!孫桓は逃げましたが劉備たちに取り囲まれました。追い詰められた孫権は急いで韓当・周泰・甘寧・潘璋を援軍として要請します。
黄忠の最期
さて、年が明けて章武2年(222年)の正月になると劉備は宴会を勝利を祝って宴会を行います。その席で劉備は関興・張苞の若手が台頭してきたことから頼もしく思います。
だが劉備は、自分や他の古参の将軍たちが老いてきたことを口走りました。近くで聞いていた黄忠はそれが癪に障ります。黄忠は老いても若者には負けない姿を劉備に見せようと思って出陣します。
目指すは呉の潘璋の陣!
黄忠はあっさりと侵入出来ました。なぜなら部下を10名程度しか連れておらず、呉軍も見回りの兵士が帰ってきたとしか思っていなかったのです。
成功に侵入した黄忠は大いに暴れ回ります。一方、突如の奇襲を受けた潘璋は大パニックに陥って、慌てて逃げだしました。逃がすわけにはいかないと思った黄忠は、馬にムチを入れますが、そこへ潘璋配下の馬忠が矢を浴びせます。身体に矢を受けた黄忠は馬から転げ落ちます・・・・・・もはや絶体絶命!
だがその時、関興と張苞が助けに入ります。彼らは呉軍を蹴散らすと黄忠を救出しました。ところが黄忠に力はありませんでした。蜀の陣に戻ると黄忠は、ゆっくりと息を引き取りました。
三国志ライター 晃の独り言
以上が小説『三国志演義』の黄忠の最期でした。さて、正史の黄忠は建安24年(219年)の定軍山の戦いで夏侯淵を斬り捨てた翌年の220年に病気でこの世を去りました。
豪傑にしては普通に亡くなっているのです。正直な話をすると高校時代までの筆者は、正史と小説の区別が全く付いていません。「冗談だろ?」と思うかもしれませんが本当の話です。