劉璋が張魯に勝てなかったのは劉璋が弱虫だからではない?


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劉璋にアドバイスをする張松

 

漢中に宗教王国を築いた張魯(ちょうろ)、その張魯に晩年は圧倒されてしまい、結局は劉備(りゅうび)の力を頼ろうとして(ひさし)を貸して母屋(おもや)を奪われたのが劉璋(りゅうしょう)です。

ここまでの流れを見ていると、巴蜀は漢中よりも広大で人口が多いので、劉璋が意気地なしで張魯を討伐できないように見えます。

しかし、経済面でみると必ずしも劉璋が弱虫だとは言えないようです。

 

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動乱期に急激に人口を増やした漢中

五斗米道の教祖・張魯

 

張魯が本拠地とした漢中は肥沃な土地ではありますが、辺鄙であり西暦140年の人口は6万戸に過ぎず、益州全体の152万戸に比べても

大きく水を空けられている状態でした。

中国では秦の時代から核家族でしたから、一戸の平均人数を5人として漢中は30万人、益州全体では760万人になるのでざっと25倍の差です。

この時代なら漢中など、ひとたまりもなかったでしょうが、後漢末期の戦乱の時代に入り益州でも急激な人口減少が起きました。

 

一方で、漢中では不思議な事に人口が流入してきています。6万戸だった人口が10万戸に増えているのです。

これは、正史三国志の張魯伝に見えている閻圃の言葉で

閻圃

 

漢川之民(かんせんのたみ) 戸出十萬(こしゅつじゅうまん) 財富土沃(ざいはとみつちひよく) 四面險固(しめんはけんこなり)

 

こちらが根拠という事になります。


充実のインフラで戸数を増やした張魯

李カク、郭汜、王允

 

漢中の人口増加の契機は長安に割拠した李傕(りかく)郭汜(かくし)のようなDQN(どきゅん)軍閥が関中を気分で襲ってヒャッハーしていた為です。

食い物が無くなれば奪えばいいという北斗の拳の悪党マインドの李傕と郭汜に関中の人民は付き合っていられなくなり漢中へと流れ込んでいきました。

恐らく張魯と劉焉(りゅうえん)の仲が悪くない頃は、漢中を通過してそのまま益州に流れ込んだ人口もあったのだろうと考えられます。

餓えた農民(水滸伝)

 

しかし、いかに戦乱を逃れる為でも居心地の悪い土地に人は移動しません。

漢中には、戦乱を逃れた人々を定着させるシステムがあったのです。それが五斗米道(ごとべいどう)義舎(ぎしゃ)のシステムです。

正史三国志張魯伝によると、それは以下の内容です。

 

諸祭酒皆作義舍(さいしゅたちはぎしゃをつくる) 如今之亭傳(それはでんしゃのようで) 又置義米肉(なかにはにくやこめをおき) 縣於義舍(かべにかける) 行路者量腹取足(たびびとははらをみたすだけたべ) 若過多(たべすぎると)

鬼道輒病(きどうによりやんだ))

 

簡単に訳すると、張魯は自分の信徒を祭酒(さいしゅ)という地位につけ、祭酒は皆、義舎を決められた距離ごとに設置して、そこに米と肉を懸けておき

道中を行く人は腹が足りるだけの分量を食べたが、貪るものは鬼道により、たちまちのうちに病んだというように書かれています。

五斗米道はその通称の通り、信者に五斗の米を納めさせて、それを資金源にこのような救貧活動をしていたようです。

疫病が蔓延した村と民人

 

戦乱に追われて喰うや食わずの人々にとり義舎の救済は有難い事ですし張魯の教団は嘘をつかず誠実に生きる事を信者に課していたので

流民も暮らしやすく祭酒の統治下で民衆も異民族も統治の便利さを楽しんだと書かれています。

地獄のような戦乱の世の中で漢中だけは別天地だったのでしょう。それこそ、漢中の人口が増えた理由でした。

 

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西暦221年の益州人口

洛陽城

 

一方で益州の人口は減る一方でした。西暦221年の漢中を含む益州の人口はたったの20万戸でしかありません。

漢中が10万戸という事は、漢中以外で残りの10万戸という事です。

つまり、人口が戸籍上大体同じになったという事であり、これでは、劉璋は張魯が目障りだと感じても迂闊(うかつ)に討伐なんて出来ません。

劉璋が格下の張魯を恐れたと言う事はなく、ほぼ同じ勢力のライバルを何とか排除しようというのが実態だったのです。

 

・kawa註

※益州全土では戸籍に現れない流民人口もかなりいたでしょうが、それらの人口を兵士にするには、ちゃんと戸籍編入する必要があります。

そうでない限りは、兵力的にはやはり漢中と同等と考えた方がいいと思います。

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

人口が一緒であれば、他所から兵力をいれて張魯より優勢な兵力で戦おうと考えるのが常識的な判断という事になります。

しかし、関中軍閥は張魯と良好な関係であり頼る事が出来ません。

そこで、日の出の勢いの曹操の所に張松(ちょうしょう)を派遣しますが、直後に曹操が赤壁で大コケしてしまい、それどころではなくなります。

 

悩んでいる劉璋に赤壁で焼け太りした劉備は同族だから頼ってみては?なんて言ってきたのが張松でした。

劉璋にすれば、劉備が勝てば、代わりに漢中をやるなり拒否するようなら、弱った所を討伐して漢中を奪えばよし

張魯に劉備が敗北しても、その後間髪(かんぱつ)入れずに張魯を攻めれば、勝機があるというのが本音だったのではないでしょうか?

曹操にキレて劉備を贔屓する張松


三国志ライターkawausoの独り言

 

三国志の時代にはトラクターもコンバインもないので、一番の資本は人でした。

正史三国志を読むと、人口が希薄な土地を何とかする為に他国から人間を(さら)い入植させて人口を増やすという行為が度々行われています。

もっと単純に言うと、戸数こそが=国力という事になるのです。

兵士 朝まで三国志

 

そう考えると、漢中と益州の戸数が拮抗していたという事は、劉璋にとっては、大きな脅威になっていた事は確かです。

劉璋は弱虫だから張魯を恐れたという事実はなく、大体同数の戸数を持つ張魯を何とかしないといけないという中で

劉備を引き込むという選択を為したのでしょう。

二刀流の劉備

 

ただ、そんな劉璋も、まさか劉備が張魯には向かわずに自分を倒しにかかるとは思わなかったようです。

これは、全くの推測ですが劉備から見ても、益州の東州兵より五斗米道教団の方が手強く見えていて

「こりゃ劉璋を殺ってしまう方が楽だべ」みたいに方針転換したという事はなかったですかね?

 

参考文献:正史三国志 出身地で分かる三国志の法則

 

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