蜀(221年~263年)の建興6年(228年)に諸葛亮は魏(220年~265年)を討伐するために出陣します。「北伐」と呼ばれるものであり、諸葛亮と魏の最初の戦いです。
しかし、この第1次北伐は馬謖が街亭で敗北したことにより撤退となりました。今回は正史『三国志』から諸葛亮の第1次北伐である街亭の戦いについて解説します。
「諸葛亮 北伐」
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諸葛亮の必勝法1 馬謖の抜擢
そもそも、街亭の戦いで馬謖が抜擢されるとは誰も思っていませんでした。みんなが考えていたのは魏延・呉懿です。魏延は劉備からの信頼が厚かったし、呉懿は外戚(=皇帝の親族)なので重要な任務を与えられると考えられていました。
だが、諸葛亮はそれに反して馬謖を抜擢。馬謖の兄の馬良は諸葛亮と親しかったし、また諸葛亮も馬謖の才能を買っていました。ちなみに南蛮戦の勝利は馬謖の功績です。
おそらく諸葛亮は、可愛がっている馬謖に1つ手柄を立てさせようと考えて抜擢したのでしょう。この時、馬謖の副将として同行したのが王平でした。実はこれには意味がありました。
諸葛亮の必勝法2 王平の抜擢
王平は若い時は街亭の近くに住んでいました。建安20年(215年)に漢中を治めている張魯を降伏させた曹操は、張魯に従っていた板楯蛮という異民族を破ります。
板楯蛮は曹操に降伏。曹操は彼らを関中・隴西地方などに移住させました。王平もこの時、板楯蛮の指導者である杜胡・朴胡についていましたが、間もなく劉備の攻撃を受けたので降伏して、以降は蜀に仕えました。
王平が副将として派遣されたのは、移住させられた板楯蛮を懐柔させるためと考えられています。
ちなみに正史『三国志』の著者である陳寿の父も街亭の戦いに従軍しています。陳寿の家は王平と同じ出身なので、やはり板楯蛮の懐柔のための出陣でしょう。
街亭の敗北の責任は馬謖だけではなく王平にもあり?
ところが、諸葛亮がこれだけの作戦を立てておきながら街亭の戦いは敗北しました。有名な敗因は馬謖が王平の助言を聞かずに、山頂に陣を敷いたので水を断たれたというものです。
しかし馬謖1人に罪をかぶせるのは、あまりにも酷な話。王平の性格から筆者は考察しました。正史によると王平は軍規は守るのですけど、性格は偏狭・疑心暗鬼・軽はずみな言動を行う人だったようです。
また街亭の戦いで板楯蛮が蜀のために行動を起こしたというのは、史料上出てこないことから説得は失敗に終わったと考えられます。おそらく王平の欠点である軽はずみな言動が出て交渉が決裂したのではないでしょうか?
馬謖が王平の助言を聞かなかったのは上記の王平の問題点からと筆者は推測しています。もちろん曹叡が呉(222年~280年)に備えていた張郃を街亭に呼び戻したことも敗因の1つでしょう。
張郃はかつて劉備が板楯蛮を攻撃してきた時に派遣された将軍でした。張郃は劉備と戦いながら板楯蛮を避難させてあげたのです。板楯蛮からすれば張郃は恩人。曹叡は張郃を派遣して板楯蛮が蜀につかない工作をした可能性を視野に入れてもおかしくありません。
諸葛亮が王平に板楯蛮の説得を依頼したように、曹叡も張郃に板楯蛮の説得を頼んだということです。正史によると張郃は状況の変化に長けた人物・・・・・・つまり、臨機応変な対応が得意だったので板楯蛮の説得を見事に成功させたのでしょう。
街亭の戦いとは武力の衝突だけが重視されるかもしれませんが、異民族と交渉して彼らを仲間に引き込んだ国が、本当の勝利者だったのでした。
三国志ライター 晃の独り言 負け戦で出世した王平
以上が街亭の戦いについての解説でした。今回登場した王平は不思議なことに、劉備存命中は功績を挙げていなかったのに、街亭の敗戦でしっかりと戦ったことから処罰を免れたな人物でした。
その後は第4、5次北伐にも参加。魏延が反乱を起こした時も討ち取ったりするなど大きな功績を挙げました。馬謖は負け戦で不名誉な最期を遂げますが、王平は負け戦で名誉を得て天寿を全うします。
全く対照的な人生です。人間とは分からないものです・・・・・・
※参考文献
・並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第1次北伐」(『駒沢史学』87 2016年)
・渡邉義浩『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』(講談社選書メチエ 2012年)
※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。
諸葛亮が好き、または王平・・・・・・やっぱり馬謖がよいという人はコメントをどんどん送ってください!
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