三国志の英雄曹操、赤壁の戦いで大敗したものの、その後は国力を高めながら関中の馬超と韓遂の反乱を鎮圧、さらに漢中の張魯を降しています。
その時、劉備はようやく蜀を制圧したばかり、このまま蜀まで攻め込めば劉備を滅ぼすチャンス!ところが曹操は折角のチャンスを放棄して鄴に帰還してしまうのです。どうして曹操は絶好のチャンスを逃したのでしょうか?
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隴を得て蜀を望む
曹操は自ら戦いに赴いて、漢中に割拠する張魯を降す事に成功します。
時に西暦215年であり、劉備はようやく蜀を制して軍政を敷いている状態でした。曹操の主簿だった司馬懿は、今であれば劉備もたやすく討てると考えて曹操に進言します。
「劉備めはペテンを使って劉璋を捕らえたばかりであり、蜀の民はまだ懐いていませんさらに、劉備は孫権と江陵を争奪している最中でもあります。
この機を逃さずに漢中に入り、武力で威嚇すれば益州の人心は動揺するでしょう。それから徐に進軍すれば劉備の軍勢は瓦解する事必定です」
これは天が我々に味方したのだから躊躇すべきではないと力説する司馬懿ですが、曹操は心を動かされず、逆に諭すように言いました。
「全く人の欲望には限りがない。すでに隴を得ているのにその上蜀を望むか?」
曹操は、張魯を降した位で征伐は上出来、それ以上は欲をかくべきでないと年相応の分別を見せ司馬懿の提言を却下したのです。なるほど分限を知り欲望をコントロールできるワシカッコイイと言いたげな曹操ですが、この名言、本当はそんなにカッコイイ理由ではないようなのです。
曹操が帝都不在時に問題が起きトラウマ
曹操が司馬懿の提言にも関わらず蜀を攻めなかった本当の理由。それは、曹操が本拠地を長く離れると決まって大事件が発生して帰還しないといけなくなるからです。例えば、西暦194年、曹操がハイペースで徐州を蹂躙していた時には腹心の陳宮が張邈と共謀して放浪していた呂布を引き込んで兗州で挙兵したのです。
この時は、荀彧や程昱のような僅かな曹操の腹心の城以外全員が叛きました。呂布との戦いは大飢饉などの中断を挟んで二年も続き曹操のトラウマになります。
「ここで劉備と事を構えれば、いかにわしが優勢とはいえ、一カ月やそこらで決着がつくものでもあるまい。ここは戦を長引かせず帰ろう」
曹操は劉備が野戦の名手である事を知っています、逃げ足が速くゲリラ的に神出鬼没する劉備が簡単に屈服しない事を熟知していて帰還したのでしょう。それに今回は張魯を降すのが目的であり、劉備を討つのが目的でもありません。戦いの相手が変われば戦術も変わるのであり、その為に仕切り直しが必要としても、これは非難されるような消極的な姿勢でもないでしょう。
曹操大後悔、司馬懿の言う通りだった・・
こうして曹操は215年の12月に南鄭から帰還して夏侯淵を漢中に駐屯させました。鄴に還っても曹操は大忙し、同年五月には公から爵位を進めて魏王になります。これを受けてか、代郡の烏桓の行単于普富盧や匈奴の南単于呼廚泉が入朝。偶然にしては出来過ぎですね、漢族ではない彼らは儒教フィルターが弱いので次の政権を握るものに対し行動が敏捷です。
異民族と比較して、何事もないかのように見える反曹操の漢の臣達ですが、この後に続々と行動を起こします。西暦217年正月は、孫権との間で濡須口の戦いが起こり、同年十月献帝から曹操に天子だけが被れる十二旒の冕やら金根車やら六頭立ての馬車が贈られ、五官中郎将の曹丕を王太子に任命、これで後継者問題は完全決着です。
217年末には、蜀の政治を安定させた劉備が張飛、馬超、呉蘭を派遣して下弁に駐屯させる事件が発生、曹操は曹洪を派遣して防がせます。翌年、西暦218正月、漢の大医令吉本と少府耿紀、司直韋晃が叛いて許を攻めますが、王必と潁川典農中郎将厳匡で鎮圧しました。
曹操の周辺では着々と爵位を進めて禅譲への用意を進める曹操への反発のような反乱が続きます。そして気になる漢中では派遣した曹洪と曹休が呉蘭を撃破し、三月には張飛と馬超が敗走しますが劉備の挑発行為は止まりません。
そこで、西暦218年の7月に曹操自らが兵を統御して再び出発し9月には長安に入ります。自分に叛いてくる反曹の人々はともかく、それに劉備が加わってくるとさすがに曹操も「あんとき、司馬懿の言う通りにしときゃよかったかなー」と後悔したかも知れません。
夏侯淵は戦死、関羽は北上、劉備に敗北
西暦218年の9月に長安に至った曹操ですが、その隙を突いたかのように十月、宛の守将の侯音が叛きます。それに呼応したかのように、荊州督の関羽が樊城を攻め、元々曹仁は関羽を討つ為に樊城にいたのを出陣して宛を包囲しました。帝都が騒がしくなり、イライラする曹操にさらなるバッドニュースが飛び込みます。西暦219年の正月、漢中を任せていた夏侯淵が定軍山で劉備と抗争中に黄忠の奇襲に遭い討ち取られてしまったのです。
曹操「おのれ、劉備!よくも我が股肱を、ただでは済まさんぞ」
怒った曹操は西暦219年3月、長安から斜谷に出て要害を通過して漢中に望み、やがて陽平に到着しますが劉備は直接対決を避けて立て籠もります。要害である陽平関を押さえられた曹操は兵站に不安を抱えやむなく退却、五月には長安に帰還しました。
もう踏んだり蹴ったり、曹操は本拠地を離れるもんじゃないなと痛感します。ところが曹操の受難はまだ続くのです。
長安にいる間に于禁が大チョンボ、鄴では魏諷がクーデター未遂
曹操は関羽相手に苦戦する曹仁に于禁の七軍を派遣しますが、8月、漢水が溢れて于禁の軍勢は水没、船がない于禁は敗北し関羽の軍勢は、于禁とその軍勢を吸収、樊城は関羽に包囲、曹操はさらに徐晃を援軍に向かわせます。
同年9月、曹操が長安から帰れず、関羽有利な状況に乗じ鄴にいた西曹掾魏諷が長楽校尉の陳禕を誘いクーデターを起こそうとしますがビビった陳禕が曹丕に密告したので、未然に阻止されてしまいました。
もう、次から次に起こる反乱と侵攻に曹操はかなり弱気にになり、鄴から遷都しようとさえ考えてしまいます。しかし、司馬懿と蔣済がこれを押しとどめ、関羽と孫権が不仲である事に乗じて孫権を寝返らせようと工作しこれが成功しました。
この頃、曹操の頭痛はかなり酷くなっていたようですが、劉備を討伐しようとした強行軍と、関羽の侵攻や侯音の反乱、魏諷のクーデター未遂は、かなり縮まっていた曹操の寿命をさらに縮めたようです。
西暦220年の正月、曹操は孫権から送られた関羽の首を見て間もなく、体調を崩して帰らぬ人になったのでした。
三国志ライターkawausoの独り言
西暦218年の9月から220年の正月までの1年と3カ月、曹操はその生涯でも怒涛と言える忙しさにありました。それもこれも、曹操が鄴から離れて漢中に向かった頃に頻発している事を見ると、曹操の遠征トラウマはいよいよ強化されたと言えるでしょう。
もう遠征はコリゴリじゃ、というのが曹操の正直な感想だったのです。
参考文献:正史三国志武帝紀
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