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曹操がすぐに蜀を攻めなかったのは過去のトラウマのせい


 

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呉と蜀を倒しに南下する曹操軍

 

三国志の英雄曹操(そうそう)、赤壁の戦いで大敗したものの、その後は国力を高めながら関中の馬超(ばちょう)韓遂(かんすい)の反乱を鎮圧、さらに漢中の張魯(ちょうろ)を降しています。

 

劉備と仲がよくなる伊籍

 

その時、劉備はようやく蜀を制圧したばかり、このまま蜀まで攻め込めば劉備を滅ぼすチャンス!ところが曹操は折角のチャンスを放棄して鄴に帰還してしまうのです。どうして曹操は絶好のチャンスを逃したのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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隴を得て蜀を望む

 

曹操は自ら戦いに赴いて、漢中に割拠する張魯を降す事に成功します。

 

二刀流の劉備

 

時に西暦215年であり、劉備はようやく蜀を制して軍政を敷いている状態でした。曹操の主簿(しゅぼ)だった司馬懿(しばい)は、今であれば劉備もたやすく討てると考えて曹操に進言します。

司馬懿

 

「劉備めはペテンを使って劉璋を捕らえたばかりであり、蜀の民はまだ懐いていませんさらに、劉備は孫権(そんけん)江陵(こうりょう)を争奪している最中でもあります。

この機を逃さずに漢中に入り、武力で威嚇すれば益州の人心は動揺するでしょう。それから(おもむろ)に進軍すれば劉備の軍勢は瓦解する事必定(ひつじょう)です」

劉備と孫権

 

これは天が我々に味方したのだから躊躇(ちゅうちょ)すべきではないと力説する司馬懿ですが、曹操は心を動かされず、逆に諭すように言いました。

 

「全く人の欲望には限りがない。すでに(ろう)を得ているのにその上(しょく)を望むか?」

 

 

困る曹操の表情

 

曹操は、張魯を降した位で征伐は上出来、それ以上は欲をかくべきでないと年相応の分別を見せ司馬懿の提言を却下したのです。なるほど分限を知り欲望をコントロールできるワシカッコイイと言いたげな曹操ですが、この名言、本当はそんなにカッコイイ理由ではないようなのです。

 

曹操が帝都不在時に問題が起きトラウマ

曹操を裏切る陳宮

 

曹操が司馬懿の提言にも関わらず蜀を攻めなかった本当の理由。それは、曹操が本拠地を長く離れると決まって大事件が発生して帰還しないといけなくなるからです。例えば、西暦194年、曹操がハイペースで徐州を蹂躙(じゅうりん)していた時には腹心の陳宮が張邈と共謀して放浪していた呂布(りょふ)を引き込んで兗州で挙兵したのです。

呂布のラストウォー 呂布

 

この時は、荀彧(じゅんいく)程昱(ていいく)のような僅かな曹操の腹心の城以外全員が叛きました。呂布との戦いは大飢饉などの中断を挟んで二年も続き曹操のトラウマになります。

「ここで劉備と事を構えれば、いかにわしが優勢とはいえ、一カ月やそこらで決着がつくものでもあるまい。ここは戦を長引かせず帰ろう」

曹操

 

曹操は劉備が野戦の名手である事を知っています、逃げ足が速くゲリラ的に神出鬼没する劉備が簡単に屈服しない事を熟知していて帰還したのでしょう。それに今回は張魯を降すのが目的であり、劉備を討つのが目的でもありません。戦いの相手が変われば戦術も変わるのであり、その為に仕切り直しが必要としても、これは非難されるような消極的な姿勢でもないでしょう。

 

陸遜特集

 

曹操大後悔、司馬懿の言う通りだった・・

 

こうして曹操は215年の12月に南鄭から帰還して夏侯淵(かこうえん)を漢中に駐屯させました。鄴に還っても曹操は大忙し、同年五月には公から爵位を進めて魏王になります。これを受けてか、代郡の烏桓(うがん)行単于(ぎょうぜんう)普富盧(ふふうろ)匈奴(きょうど)南単于(みなみぜんう)呼廚泉(こちゅうせん)が入朝。偶然にしては出来過ぎですね、漢族ではない彼らは儒教フィルターが弱いので次の政権を握るものに対し行動が敏捷(びんしょう)です。

曹操と曹丕

 

異民族と比較して、何事もないかのように見える反曹操の漢の臣達ですが、この後に続々と行動を起こします。西暦217年正月は、孫権との間で濡須口(じゅすこう)の戦いが起こり、同年十月献帝(けんてい)から曹操に天子だけが被れる十二旒の(べん)やら金根車(きんこんしゃ)やら六頭立ての馬車が贈られ、五官中郎将の曹丕を王太子に任命、これで後継者問題は完全決着です。

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

217年末には、蜀の政治を安定させた劉備が張飛(ちょうひ)馬超(ばちょう)呉蘭(ごらん)を派遣して下弁に駐屯させる事件が発生、曹操は曹洪を派遣して防がせます。翌年、西暦218正月、漢の大医(たいい)吉本(きっぽん)少府(しょうふ)耿紀(こうき)司直(しちょく)韋晃(いこう)(そむ)いて許を攻めますが、王必(おうひう)潁川典農中郎将(えいせんてんのうちゅうろうじょう)厳匡(げんきょう)で鎮圧しました。

 

苛ついている曹操

 

曹操の周辺では着々と爵位を進めて禅譲への用意を進める曹操への反発のような反乱が続きます。そして気になる漢中では派遣した曹洪と曹休が呉蘭を撃破し、三月には張飛と馬超が敗走しますが劉備の挑発行為は止まりません。

石亭の戦い 曹休と韓当

 

そこで、西暦218年の7月に曹操自らが兵を統御して再び出発し9月には長安に入ります。自分に叛いてくる反曹の人々はともかく、それに劉備が加わってくるとさすがに曹操も「あんとき、司馬懿の言う通りにしときゃよかったかなー」と後悔したかも知れません。

赤鎧を身に着けた曹操

 

夏侯淵は戦死、関羽は北上、劉備に敗北

法正に敗れる夏侯淵

 

西暦218年の9月に長安に至った曹操ですが、その隙を突いたかのように十月、(えん)の守将の侯音(こうおん)が叛きます。それに呼応したかのように、荊州督の関羽が(はん)城を攻め、元々曹仁は関羽を討つ為に樊城にいたのを出陣して宛を包囲しました。帝都が騒がしくなり、イライラする曹操にさらなるバッドニュースが飛び込みます。西暦219年の正月、漢中を任せていた夏侯淵が定軍山で劉備と抗争中に黄忠の奇襲に遭い討ち取られてしまったのです。

 

ブチ切れる曹操

 

曹操「おのれ、劉備!よくも我が股肱を、ただでは済まさんぞ」

 

怒った曹操は西暦219年3月、長安から斜谷(しゃこく)に出て要害を通過して漢中に望み、やがて陽平に到着しますが劉備は直接対決を避けて立て籠もります。要害である陽平関を押さえられた曹操は兵站に不安を抱えやむなく退却、五月には長安に帰還しました。

もう踏んだり蹴ったり、曹操は本拠地を離れるもんじゃないなと痛感します。ところが曹操の受難はまだ続くのです。

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

長安にいる間に于禁が大チョンボ、鄴では魏諷がクーデター未遂

曹操、ホウ徳、于禁

 

曹操は関羽相手に苦戦する曹仁に于禁(うきん)の七軍を派遣しますが、8月、漢水が溢れて于禁の軍勢は水没、船がない于禁は敗北し関羽の軍勢は、于禁とその軍勢を吸収、樊城は関羽に包囲、曹操はさらに徐晃を援軍に向かわせます。

馬に乗って戦う徐晃

 

同年9月、曹操が長安から帰れず、関羽有利な状況に乗じ(ぎょう)にいた西曹掾(せいそうじょう)魏諷(ぎふう)が長楽校尉の陳禕(ちんい)を誘いクーデターを起こそうとしますがビビった陳禕が曹丕に密告したので、未然に阻止されてしまいました。

荀彧に手紙を書く曹操

 

もう、次から次に起こる反乱と侵攻に曹操はかなり弱気にになり、鄴から遷都(せんと)しようとさえ考えてしまいます。しかし、司馬懿と蔣済がこれを押しとどめ、関羽と孫権が不仲である事に乗じて孫権を寝返らせようと工作しこれが成功しました。

頭痛に悩む曹操

 

この頃、曹操の頭痛はかなり酷くなっていたようですが、劉備を討伐しようとした強行軍と、関羽の侵攻や侯音の反乱、魏諷のクーデター未遂は、かなり縮まっていた曹操の寿命をさらに縮めたようです。

西暦220年の正月、曹操は孫権から送られた関羽の首を見て間もなく、体調を崩して帰らぬ人になったのでした。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

西暦218年の9月から220年の正月までの1年と3カ月、曹操はその生涯でも怒涛と言える忙しさにありました。それもこれも、曹操が鄴から離れて漢中に向かった頃に頻発(ひんぱつ)している事を見ると、曹操の遠征トラウマはいよいよ強化されたと言えるでしょう。

曹操頭痛

 

もう遠征はコリゴリじゃ、というのが曹操の正直な感想だったのです。

 

参考文献:正史三国志武帝紀

 

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呂布

 

 

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