その理由はただ一つ、劉備の義弟である関羽を殺してしまった事です。後世関羽がうっかり神様になってしまった為に呂蒙の受難は長引き、演義では関羽の霊に祟り殺されるという悲惨な最期を迎えるまでになっています。
「こうなるくらいなら関羽は捕まえるだけで、判断は殿に仰げば良かった」と草場の陰で後悔しているかも知れません。それはそれとして、史実での呂蒙は最初から関羽を殺すつもりだったのでしょうか?それとも不可抗力が働いたのでしょうか
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孫権も呂蒙も関羽を討つ気満々だった
結論から言うと、孫権も呂蒙も関羽を討つ気満々でした。
そもそも関羽には英雄の覇気があり領土を拡大しようとする意図もあります。その関羽と国境を接している上、川の下流に位置する呉が脅威を感じないわけはありません。曹操が劉備を討伐する為に漢中に向かったタイミングで関羽が曹操の領地に侵攻した様子を間近に見ていれば、(おいおいコイツやってんな!)と思って当然です。
「曹操は敵だが呉は仲間な!関羽との約束だ!」と言われても、少し前に南荊州の領有を巡りバトルを演じた事もあるのに、そんな口約束は信じられないでしょう。また、関羽が孫権との縁組を蹴ったのも、関羽に対する不信を増加させたと見ます。
実際に正史三国志呉主伝には、孫権は関羽を憚り、これを討って曹操への臣従の証にしようとしたとありますし、呂蒙にしても関羽が樊城を攻めたものの公安と南郡に兵力を留めているのを自身を警戒している為と見抜き、病気で領地を離れ油断させようとしています。関羽はこれに引っ掛かり、公安と南郡の兵士も樊城包囲に投入しました。
このように、孫権も呂蒙も関羽絶対殺すマンとして完全にタッグを組んでいます。
関羽の方が呂蒙を信じていた
このように孫権と呂蒙が関羽を殺す気満々だったのに対し、関羽の方は呉を信じていたような様子があります。それと言うのも、孫権が曹操に関羽を討って臣従の証を立てるという内容の書簡を送ると、曹操は駅伝を使って書簡を樊城の曹仁に送り届け、曹仁は弩を使い同じ文面を関羽の陣営に飛ばしています。
曹操としては関羽に「呉の酒乱ヒゲダルマ、お前に協力しているみたいな顔しとるけどワイにこんな手紙を出してきとるで、寝首かかれんように気ィつけや」と促して、樊城から引き揚げさせようとしたのでしょう。
ところが関羽は、曹仁が打ち込んできた書簡を見ても考えを巡らすばかりで判断を下す事が出来なかったと孫権伝には書かれています。関羽としては、いかに自分との関係が険悪であるとはいえ、孫権が曹操と組むとはにわかに信じがたかったのでしょう。
老年に達した関羽は呉の翻心を見抜けず、退却して出直すチャンスを失いつつありました。
湘関略奪は関羽が呉と敵対した契機か?
さて、樊城を包囲した関羽に対し曹操は于禁の七軍を派遣して救おうとしますが、折悪しく長雨が続き漢水が決壊し七軍は水没、于禁は関羽に降伏します。これにより、関羽の包囲軍はさらに数万人膨れ上がり、長安にいた曹操もビビってしまい遷都しようと考えたそうですが、関羽は関羽で困った事情を抱えていました。数万の投降兵に食わす米を想定していないので、食料が不足したのです。
ここで関羽が春秋戦国時代の白起のように、食わせる米がないからと魏兵数万を穴埋めしていれば食糧不足はなかったのでしょうが、流石にそんな事は出来ない義理堅い関羽。食糧を得ようと湘関の米を欲しいままに奪ったと記録されています。
孫権は、これを聴いて暴虐だと感じて呂蒙を出陣させたらしいのですが、どうもこじつけの臭いがします。というのも湘関は要塞ではなく精々関所であって、ここには呉に入る備蓄米が積み上げられていただけのような感じがするからです。
もし、ここで戦闘があれば、関羽は守備兵○○人を討ったとか守将を敗走させたとか書かれると思います。しかしそんな記述はないので、ここで戦闘は起こらず、「食糧を寄こせと言っているのだツベコベ抜かすな」と武力で脅しながら、強引に米を持ち去ったのでしょう。
さらに言えば、それは関羽が尚も呉は魏と結んではいないと考えていた事を裏付けていると考える事が出来ます。敵対していたなら、ほしいままに奪うのではなく、全て持ち去るに違いないですし、持ちされないなら燃やして呉の倉に入らないようにするからです。
呂蒙は関羽を逃がすつもりはなかった
呂蒙は病気で任地を離れたように見せかけ商人の姿をして、船底に精兵を隠して、関羽が配置した国境監視所の兵士を縛り上げて監視所を接収します。この為関羽は領地で異変が起きた事を察知できませんでした。こうして呂蒙は江陵に入り、関羽と仲が悪かった士仁と麋芳が降伏。ここで関羽が生還できる目は完全につぶされてしまいます。曹仁は城を固く守り水は引いてしまい、ここに新たに徐晃の援軍が到着した事で、関羽は勝機が潰えた事を悟ります。
すでに、戻る事が出来る根拠地はないのですが、それを知らない関羽は呂蒙に度々使者を送り様子を探らせています。これに対し呂蒙は、使者に「すでに江陵は落ちているが、君達の家族は手厚く保護されていて無事だ」と、実際に家族に会わせて安心させました。
呂蒙が使者を帰らせると、使者は関羽に本当の事は言わず、逆に仲間には「もう関羽はオシマイだから逃亡すべき」と告げたので、関羽軍からは兵士の逃亡が相次ぎます。
いかに鈍感な関羽も、いよいよ呉が裏切った事を認めざるを得なくなり江陵に引き返す事を諦めて麦城に籠城します。ここで孫権は関羽に対して降伏を誘い、関羽は偽って降伏して逃げる途中に呉将の朱然と潘璋の包囲網に引っ掛かり部将の馬忠に捕まり、子の関平、そして都督の趙累もろとも処刑されます。
この事から孫権は関羽を救うつもりはあったが、関羽が偽りの降伏で逃げたのでやむなく斬ったというのが成り立たなくなります。孫権はすでに関羽が逃げる事を予測していて朱然と趙累を配置しているのですから・・・ついでに言うと、ここでは陸遜も出陣し、秭帰、枝江、夷道を獲って夷陵に駐屯し蜀が長江を下って関羽を救出する事を阻止する為に布陣を整えています。
「劉備が関羽を救いに来ても喧嘩上等」と構えていたわけで、まさに水も漏らさぬ関羽包囲網であり殺す気満々な決意が見えます。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義では、関羽を捕らえた孫権は、自分の部下になる気はないかと勧めています。
それに対して関羽は碧眼の小僧、紫髯のネズミ野郎と罵倒して降伏を拒否していますが、これは正史三国志関羽伝に引く蜀記に出てきます。ここで孫権は関羽を部下にして曹操に対抗させようと考えますが、左右の部下に曹操でさえ飼えなかった男をどうして生かして禍を呼ぶのかと反論されて渋々殺害したとされています。
ただし裴松之は、蜀記を著わした東晋の王隠は記述が信用できないと断じていて、特に孫権が関羽を生かそうとした件は、まともな知性があれば口にするはずもないと断じています。kawausoも用意周到に関羽が逃げる事まで見越していた孫権が、関羽を生かす気は最初からなかったのではないかと考えています。
参考文献:正史三国志 三国志演義
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