黄忠は蜀(221年~263年)の将軍です。蜀の建国前には亡くなっているので正確には後漢(25年~220年)末期の将軍が正しいです。
黄忠と聞けば小説『三国志演義』で厳顔と老将タッグで活躍したり、魏(220年~265年)の夏侯淵を討ったことで有名ですが、史実の彼はどんな人物なのでしょうか?そこで今回は正史『三国志』をもとに史実の黄忠にスポットを当てて解説しようと思います。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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荊州の劉表に仕えて孫策を苦しめる
黄忠は荊州南陽郡の出身ですが、生年や若い時の事績については分かりません。おそらく生まれはそんなに良くなかったと推測されます。荊州の長官である劉表のもとで中郎将に任命されますが、いつの話かも不明です。
劉表の前任者の王叡は初平元年(190年)に不仲であった孫堅に攻められて討たれました。劉表はその後任として朝廷から任命されて荊州の統治に当たります。もしかしたら黄忠は、前は王叡の配下であり王叡の死後にそのまま劉表に仕えた可能性も高いです。
黄忠は劉表の従子の劉磐に従軍します。劉磐は劉表軍でも腕の立つ猛将であり、孫策の領土に繰り返し侵入して民を苦しめました。
つまり孫策にとって劉磐は厄介な存在でした。史書は何も語っていないのですが、黄忠も従軍して孫策を苦しめたと思います。しかし興平2年(195年)以降、劉磐にとって厄介な人物が登場しました。
太史慈でした。彼は武勇だけではなく統治能力にも優れており幾度も劉磐の侵攻を食い止めました。劉磐は太史慈が存命している間は、孫策・孫権への攻撃を控えます。
曹操・劉備への降伏する黄忠
時は流れて建安13年(208年)に劉表は亡くなり息子の劉琮が後を継ぎました。だが、劉琮はすぐに北方から来た曹操に降伏してしまいます。こうして黄忠の新しい主人は曹操となりました。黄忠の上司である劉磐も新しく赴任した韓玄と交代させられます。
主君と上司が交代しても黄忠は普通に働きます。ところが、曹操は劉備と孫権の連合軍により赤壁で敗北・・・・・・
荊州も劉備と孫権の領土争いに巻き込まれました。韓玄は建安14年(209年)に劉備に攻められて降伏。黄忠もこの時に降伏して劉備に仕えます。ここから黄忠の華やかな人生がスタートします。
夏侯淵を討ち、蜀軍ナンバー2の将軍となる
劉備に仕えた黄忠は、建安17年(212年)から同19年(214年)にかけて劉備に従って蜀の劉璋を攻撃しました。黄忠の武勇は最も優れており次々と敵陣を陥落させました。この功績により黄忠は討虜将軍に任命されます。
建安24年(219年)に劉備は、漢中の定軍山を守備している夏侯淵を攻撃しました。
蜀の軍師である法正は夏侯淵が戦の駆け引きが得意でないことを分かっていたので、魏軍の柵に火を付けて夏侯淵を慌てさせます。
「消火しないと!」と現場に急行した夏侯淵。そんなことは部下にやらせればいいのに、夏侯淵は自分でやりにいきます。夏侯淵が動き始めたことを見届けた黄忠は兵を励ましながら魏軍に近付き、一気に奇襲をかけました。
あっという間のことであり夏侯淵は、黄忠に討たれてしまいました。おそらく何が起きたのか自分も気付かなかったのではないでしょうか。
魏の幹部クラスである夏侯淵を討った功績により黄忠は征西将軍になりました。さらに劉備が漢中王になると後将軍に就任します。将軍の序列では関羽の次に位置します。劉備のもとで働いて10年で凄い出世です。
ただし、これには諸葛亮が難色を示します。
「黄忠の名声人望は関羽や馬超クラスじゃありません。それなのに彼を同等の位に就かせるのはいかがなものでしょうか?張飛や馬超は彼の活躍を近くで見ていたので納得するでしょうが、荊州にいる関羽は納得しませんよ」
劉備は諸葛亮の心配ごとを聞くと、「俺が説得する」と言いました。もちろん自分が直接行くわけにはいきません。部下の費詩を関羽のもとに派遣します。
案の定、関羽は黄忠と同列にされたことに激怒する始末。
これに対して費詩は、「確かに劉備様は黄忠殿を後将軍に任命しました。しかし関羽殿と黄忠殿の心中の評価は一緒でしょうか?」とコメント。
費詩はさらに、位の高低を気にするのは間違っていると関羽を注意しました。それを聞かされた関羽は「失礼しました」と謝罪して前将軍の位を受け取ったのでした。
三国志ライター 晃の独り言 黄忠の年齢は?
こうして関羽と同列になり、これからも活躍が期待される予定だった黄忠でしたが残念ながら延康元年(220年)にこの世を去りました。享年不明です。
黄忠は高齢者という印象がありますが、彼の列伝には一箇所もその証拠が出てきません。どこに登場するのかと言いますと、関羽を説得した費詩の列伝に「老兵」という言葉で登場します。
昔は人生50年です。黄忠の年齢は不明ですが「老兵」と表記されるところから、おそらく50後半から60歳ぐらいでしょう。
当時としてはかなりの長生きの部類です。
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