劉岱の死亡の原因は鮑信だった!ほんとうにあった怖い三国志


 

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ヘソにろうそくを刺される董卓

 

初平3年(192年)に董卓(とうたく)が殺害されたことにより、再び黄巾軍が各地で暴れ始めました。特に青州を拠点に活動していた青州黄巾軍は精強でした。

 

戦いに敗れる劉岱

 

青洲黄巾軍は兗州刺史の劉岱(りゅうたい
)
を攻撃して戦死させます。劉岱の戦死後に曹操(そうそう)が兗州に来て青州黄巾軍を打ち破り、彼らを配下に収めたのは有名な話です。実は劉岱の死に関しては黒幕が存在していました。

 

鮑信

 

それは若き日の曹操の才能を認めた鮑信(ほうしん
)
でした。今回は劉岱戦死事件に関しては解説していきます。

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています

 

自称・皇帝
当記事は、
「劉岱 死亡」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

関連記事:青州兵は曹操の部下ではなく同盟関係だった!

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操を評価した鮑信

何進

 

鮑信は、かつては大将軍の何進(かしん)にも仕えていました。

 

宦官を一掃することを決意する何進

 

中平6年(189年)に何進が宦官殲滅のために兵士を募っている時に、鮑信は徴兵のために出張していました。しかしその最中に何進は宦官に返り討ちにされてしまい、鮑信が戻ると朝廷内の混乱は董卓が収束させていました。

 

董卓

 

鮑信は董卓が必ず混乱を起こすと予言すると洛陽から立ち去ります。鮑信の予想が当たったのは言うまでもありません。

 

橋瑁が決起文を送り反董卓連合軍結成

 

初平元年(190年)に袁紹を盟主とした董卓討伐軍が結成されると、鮑信は弟の鮑韜(ほうちゅう
)
と一緒に出陣しますが、袁紹(えんしょう)や大半の諸侯は自分から董卓と戦う意思ゼロ。鮑信兄弟は、がっかりします。そんな時に鮑信が出会ったのが曹操でした。曹操と話した鮑信は彼が只者ではないと感じて、以降は曹操と友好関係を結びます。

 

被害妄想で怯える韓馥

 

初平2年(191年)に袁紹は韓馥(かんふく
)
から冀州を無血で渡されました。この当時、曹操は群雄として勢力が小さかったので袁紹に従っていました。鮑信は曹操に対して積極的に袁紹からの離脱をすすめます。

 

「袁紹は自分の利益しか考えていませんので自ら戦乱を引き起こします。これではもう1人の董卓です。ここは黄河の南に手を付けて、情勢の変化を待つのがよいです」

 

黒山賊

 

鮑信のススメを聞いた曹操は、ちょうど黒山賊が暴れていることを聞いたので討伐に行くことを口実に袁紹を離脱します。

 



劉岱戦死

白馬義従の公孫サン

 

曹操が黒山賊と戦っている間に青州黄巾軍が冀州に乗り込んできました。だが、公孫瓚(こうそんさん)の白馬義従の前に撃退されます。敗北した青州黄巾軍は兗州に逃げ込みました。兗州刺史の劉岱は迎撃するつもりでしたが鮑信が劉岱を諫めます。

 

「敵は物資が不足して略奪で暮らしています。敵が疲弊するのを待てばよいです」鮑信の言っていることは、まさに正論。

 

劉岱

 

ところが劉岱は何を焦ったのか、鮑信の諫言を無視して突撃して、あっさりと討ち死に・・・・・・兗州では総大将がいなくなり大混乱に陥ります。

 

曹操の到着と鮑信の最期

陳宮

 

上記の事態に待ってましたとばかりに手を挙げたのは曹操でした。まず最初に推薦したのは、まだ曹操の部下であった陳宮(ちんきゅう)でした。

 

「兗州では総大将を失って大変です。皇帝からの辞令も無く新しい人が赴任していません。ここは曹操様が新しい兗州刺史になってください」鮑信は当然、大賛成!早速、兗州の名士を説得して味方につけると曹操を出迎えました。自称ではありますが曹操は兗州の刺史に就任します。

 

鮑信と曹操

 

そして鮑信と一緒に戦って青州黄巾軍を破りました。残念なことに鮑信はこの時の戦いで曹操を守って討ち死にしました。曹操の天下を見ることが出来ずに生涯を終えましたが、人を見る目は確かな男でした。

 

劉岱の死の真相

戦う劉岱

 

ところで、ここで1つの謎が残ります。劉岱には防戦を提唱したはずの鮑信ですが、曹操が来ると方針が攻戦に変わっていますが、どういうことでしょうか?おそらくこれが鮑信の策だったのです。彼のプランは河南の制圧にあります。曹操を天下人にするため鮑信は袁紹から離脱することを提案してこれは達成されました。ところが次の障害は兗州刺史の劉岱です。彼には消えてもらわないといけません。そんな時に青州黄巾軍が襲い掛かってきたので、それをネタに劉岱に籠城戦を提案します。

 

劉岱は籠城戦が出来るほど我慢強い人間ではない、とあらかじめ読んでいた鮑信は、「あなたに正攻法なんて無理です」とオブラートに言いました。案の定、引っかかった劉岱はそのまま突撃して戦死。こうして鮑信は予定通り、曹操を兗州刺史に就任させることが出来たのでした。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が劉岱の死の真相に関しての記事でした。鮑信にこの時、従っていた副将がおり、その人物が後の(220年~265年)の五将軍の1人である于禁でした。鮑信は若き日の曹操を評価した数少ない人物の1人でした。彼が曹操の天下を見ることが出来ずに、戦死したのは非常に残念でなりません。

 

ちなみに、鮑信をキャラクターとして描いたマンガは『蒼天航路』だけです。ゲーム(『三国志』シリーズは除く)でも未登場の状況です。ぜひ、鮑信をキャラクター化してほしいです。

 

※参考文献

・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫 2010年)

 

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※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。鮑信が好きという人はコメントをください。

 

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君主論

 

 

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