魏延は蜀(221年~263年)の将軍です。
建安17年(212年)の劉備の益州侵攻の時から従軍している人物であり、理由は不明ですが劉備は非常に可愛がっていました。ただし、諸葛亮とは軍事面で全く馬が合いません。諸葛亮の死後、彼の側近である楊儀と対立して殺されます。さて、今回は小説『三国志演義』をもとに魏延が劉備陣営に加入した経緯について説明しようと思います。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
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魏延VS蔡瑁
建安13年(208年)に荊州を統治していた劉表が亡くなりました。後を継いだのは長男の劉琦ではなく、次男の劉琮です。しかし劉琮は叔父の蔡瑁のススメで曹操に降伏を決意。降伏の話は劉備のもとにも届きました。関羽・張飛・諸葛亮は蔡瑁を討ち、劉琮を人質にとって荊州を曹操が来るより早く占拠するプランを提案。
だが劉備は、「劉表殿にお世話になったので、それはダメ!」と拒否しました。仕方ないので劉琮にお別れの挨拶に行きます。ところが、劉琮と蔡瑁は劉備の挨拶を拒否。それどころか劉備たちを攻撃してきました。「やめてくれ!」と劉備たちは叫ぶも、蔡瑁は全く手をゆるめません。
その時、「待て!」と1人の男が現れました。男は魏延と言って、元・劉表配下の将軍でした。また、彼は劉表陣営でも劉備派の人物です。
「荊州は劉備殿に統治してもらうのが1番だ!」と言って、魏延は部下を引き連れて蔡瑁軍に襲い掛かりました。「裏切者め!」と蔡瑁も部下を引き連れて魏延軍と戦闘開始。城内の混乱を遠くから眺めた劉備たちは立ち去ることに決めます。一方、魏延は死闘の末に周囲にいた部下が全滅・・・・・・仕方なく魏延は長沙太守の韓玄を頼ることにしました。
魏延、黄忠を救出する
落ち延びた劉備たちはその後、孫権と手を組んで赤壁で曹操を破りました。建安14年(209年)に劉備は孫権に無断で兵を動かして零陵・桂陽・武陵・長沙の奪取に挑みます。零陵・桂陽・武陵は陥落したので、残りは長沙のみです。長沙攻略に挑んだのは関羽でした。長沙の太守は韓玄という人物であり圧政を敷いて民を苦しめていました。
韓玄1人なら簡単に倒せるのですが、長沙には黄忠という猛将がいたのです。関羽は早速、黄忠と一騎打ちの勝負を挑みました。初日は全く勝負がつかずに両者とも引き分けに終わります。2日目もなかなか勝負がつきません。しばらく戦っていると黄忠の馬が転倒。黄忠は地面に叩きつけられました。いつもの関羽ならば斬って終わりなのですが、なんと関羽は斬りません。それどころか馬を替えて再戦を申し出ます。
関羽の義侠心に心打たれた黄忠は翌日の勝負で得意の弓矢を持ってきました。しかし、黄忠は関羽を射抜かずに、彼がかぶっている頭巾を射抜きました。黄忠は昨日の恩を弓矢で返したのです。武人として天晴れな人物。だが、この黄忠の行為が主君である韓玄の怒りに触れました。韓玄は関羽と黄忠が内通していると思ったのです。
結局、黄忠には死刑が言い渡されました。黄忠は刑場に連れて行かれて殺されそうになったその時、「待て!」と呼び止めた人物が1人。誰だか分かると思いますが魏延です。彼は黄忠を救出すると民や兵士に対して、「今こそ圧政を敷いた韓玄を倒すぞ!」と扇動します。魏延に言われると、民や兵士は催眠術にかかったように反乱開始!
「そんな調子の良い反乱があるか!」とツッコミたくなりますが、小説にツッコミを入れるのは負けですね(笑)
こうして韓玄は魏延に殺されて長沙は関羽に平定されました。
諸葛亮と魏延 対立の始まり
こうして魏延は劉備の配下となりました。劉備も魏延に再会すると、「お久し振りです」と挨拶します。だが、諸葛亮は「劉備様、早くこんな男は殺しましょう」と急にぶっそうなことを言いました。諸葛亮が言うには、顔に「反骨(裏切り)の相」が出ているので必ず、自分たちに害を加える可能性があると説明します。顔で人を決めるなんて諸葛亮もエグイ・・・・・・
ところが、劉備は「そんなことをしたら、私のところに降伏する人物がいなくなる」と諸葛亮の判断にストップをかけました。渋々ながらも諸葛亮は魏延の加入を認めました。しかし、これが諸葛亮と魏延の対立の始まりでした。
三国志ライター晃の独り言
以上が小説『三国志演義』をもとにした魏延の劉備陣営加入の経緯でした。横山光輝氏はマンガの中で「反骨の相」というネタは一切使用していません。おそらく、「反骨の相」というネタが、当時の日本人にはピンと来ないものと考えたからでしょう。横山氏のどの中国史作品にも言えるのですが、彼は度が行き過ぎるほど非現実的な内容(例:魔法 神様など)は、なるべく現代の読者の視点に合わせた内容にしてあげる特徴があります。
諸葛亮が魏延を嫌った理由に関しても「主従関係であるにも関わらず、混乱のスキに乗じて主人を殺害した不届き者」という解釈にしています。ただし、この横山氏の解釈は無理があったのです。実は長沙以前に討った武陵太守が、部下の反乱で殺害されていました。この反乱の首謀者である部下に関して諸葛亮は処罰するどころか、恩賞まで与えています。たぶん横山氏も執筆中に気付いていたでしょうが、現代の読者を納得させるには、これしかないと思ったのでしょう。巨匠の悩みが想像されます。
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