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【麒麟がくる】戦国時代の旅行にはいくら掛かったの?

2020年2月7日


 

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麒麟(きりん)がくる第二話では、(さかい)と京都を(めぐ)り鉄砲と名医を連れてきた明智光秀(あけちみつひで)が、ドケチの斎藤道三(さいとうどうさん)に旅費を半分返せと言われ、それが無理なら侍大将(さむらいたいしょう)の首を()ってこいと言われていました。しかし、当時の旅行では、どの程度のお金が掛かったのでしょうか?

 

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

調べてみると、ドケチ道三のドケチぶりがより明らかになりました。今回は、永禄(えいろく)六年北国下(ほっこくくだ)遣足帳(けんそくちょう)を参考に、光秀の旅について考えてみます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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永禄六年北国下り遣足帳

西遊記巻物 書物

 

戦国時代に旅行なんて命懸(いのちが)けだったのではないか?現代の感覚だとそう思ってしまいますが、実際にはそうでもなかったようです。それを裏付けるのが京都醍醐寺(きょうとだいごじ)の僧侶が桶狭間(おけはざま)の戦いから3年後に京都から北陸(ほくりく)・北関東・南東北・越後(えちご)飛騨美濃(ひだみの)まで一年間に渡り旅をした永禄六年北国下り遣足帳です。

 

 

永禄六年とは西暦1563年で、まさに戦国時代のど真ん中ですが、醍醐寺の僧は、大変そうな様子を微塵も見せずに、何かにつけて酒を飲み、時には下宿の女に二十文(3000円)を渡すなどウヒョな事をしていた形跡を残しつつ、結構旅を楽しんで帰国しています。実は戦国時代には、すでに江戸時代のような旅籠(はたご)やお寺などの宿泊設備がある程度、充実していて、宿泊や食事、渡河(とか)や、馬の手配なども料金が安定し、旅行はそこまで危険ではなかったようです。

 

明智光秀の旅行を追体験してみよう

明智光秀(麒麟がくる)

 

京都醍醐寺の僧は、帰途で明智十兵衛のいた美濃を通過していますので、そこから琵琶湖(びわこ)を渡るまでを追ってみましょう。

 

・10月22日
昼休み小(づか)い(昼食)以下46(もん) 場所不明。

美濃井ノ口(みのいのくち) 「旅籠(はたご)」60文
10月23日
・井ノ口 「旅籠」60文

10月24日
・(場所不明)
「小遣い」14文 「旅籠」60文

・(場所不明)
10月25日
「小遣い」14文 (場所不明)
・下坂  「駄賃(だちん) 下坂まで」80文 「旅籠」60文
10月26日
・大浜 「旅籠」60文
10月27日
琵琶湖横断(びわこおうだん)、西岸の坂本へ渡る「船賃300文」

・坂本   「旅籠」60文
(10月28日)
「小遣い」30文

 

部下を競争させる織田信長

 

こうしてみると、岐阜から滋賀県にかけての旅籠(ホテル)料金が六十文と一定している事に気が付きます。当時、岐阜(ぎふ)県から滋賀(しが)県をまとめて支配している戦国大名の勢力はないので、これは戦国大名が決めた旅籠の費用ではなく当時の市場価格と考えられます。旅籠価格は、地域によってバラつきがあるものの、上は八十(もん)から下は二十文と、4倍程度の差であり、旅行に絶対的な支障が出る格差ではありません。

ちなみに駄賃というのは、馬に乗ったり、人を雇ったりするときの経費で、12000円くらいになります。

宋銭 お金と紙幣

 

ちなみに、当時の一文は150円くらいなので一泊九千円ですね。ちなみに旅籠料金には二食がついているようです。

 

本文の冒頭に出てくる昼休みとは昼食の事で、四十六文と出ています。これは現代価格で6900円という事ですが、幾らなんでも高いので同道者がいた可能性が考えられるそうで、一人十文が相場、と言う事は5人弱で昼飯を食べた事になり、一人だと1500円になります。

 

遣唐船(奈良時代)

 

大河ドラマでも描かれた琵琶湖渡海ですが、こちらは三百文で現在価格でも45000円とそれなりに高価ですが、琵琶湖渡りは、アミューズメント的な価値もありそうなので、遊覧料も込みと考えていいでしょう。

 

麒麟がくる

 

光秀の旅行費用は○○円

経済政策が得意な織田信長

 

では、肝心の明智光秀の旅にはいくら掛かったかを考えます。ドラマの中で、光秀は母の(まき)に「長くても二月は掛からない」と言っていましたから、およそ60日を前提として考えてみましょう。永禄六年北国下り遣足帳(けんそくちょう)の僧侶は、丸一年を掛けて京都から北陸を旅して旅費の僧額が十四(かん)八十一文となっています。これを現在価格に直すと、2,112,150円という金額が出てきますので、これを60日計算すると、352,025円が算出されました。

斎藤道三

 

道三が半分返せと言ったという事は、光秀は17万円を返済すればいいという事でしょうか?うーん、、侍大将の首二つで17万円が帳消しとは高すぎるような気がしますけどね。そんなに裕福そうではないとはいえ、叔父(おじ)光安(みつやす)に事情を話して頼めば、17万円位は何とか返済出来そうな気もしないでもないし、、でも、叔父に余計な心配を掛けたくない十兵衛は、自分だけで何とかしようと無謀な道三の提案を受けたのでしょうか?

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

まあ、斎藤道三のドケチぶりを強調する上では丁度いい価格なんでしょうか。

 

意外に整備されていた当時の宿泊施設

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

永禄六年北国下り遣足帳を参考に、十兵衛光秀の旅を見ると、戦国時代でも京都から北陸にかけては、貴人という程ではない人でも利用できる、旅籠や寺社などがあり、所々不便な土地はあるにせよ、かなり快適に旅を続けられる事が分かります。もっとも、それも金があればの話ですし、道中には夜中は通れない場所や、昼なお暗き、盗賊が出没する土地もあり、だからこそ、醍醐寺の僧侶は時に、集団で旅をしていたとも考えられ、或いは太刀を佩いたりと最小限の武器は所持したかも知れません。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

史実の光秀は合戦前の移動でも、名所に立ち寄れば歌を詠んだり、感想を書き記すなど、実は風流な趣味人であった事が分っています。19歳の光秀の旅はフィクションですが、案外に、そういう部分は変わらず楽しみを見つけては、見聞を広めていたのかも知れません。

 

参考文献:中世後期の旅と消費『永禄六年北国下り遣足帳』の支出と場 小島道裕

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

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