麒麟がくる第二話では、堺と京都を巡り鉄砲と名医を連れてきた明智光秀が、ドケチの斎藤道三に旅費を半分返せと言われ、それが無理なら侍大将の首を獲ってこいと言われていました。しかし、当時の旅行では、どの程度のお金が掛かったのでしょうか?
調べてみると、ドケチ道三のドケチぶりがより明らかになりました。今回は、永禄六年北国下り遣足帳を参考に、光秀の旅について考えてみます。
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永禄六年北国下り遣足帳
戦国時代に旅行なんて命懸けだったのではないか?現代の感覚だとそう思ってしまいますが、実際にはそうでもなかったようです。それを裏付けるのが京都醍醐寺の僧侶が桶狭間の戦いから3年後に京都から北陸・北関東・南東北・越後・飛騨美濃まで一年間に渡り旅をした永禄六年北国下り遣足帳です。
永禄六年とは西暦1563年で、まさに戦国時代のど真ん中ですが、醍醐寺の僧は、大変そうな様子を微塵も見せずに、何かにつけて酒を飲み、時には下宿の女に二十文(3000円)を渡すなどウヒョな事をしていた形跡を残しつつ、結構旅を楽しんで帰国しています。実は戦国時代には、すでに江戸時代のような旅籠やお寺などの宿泊設備がある程度、充実していて、宿泊や食事、渡河や、馬の手配なども料金が安定し、旅行はそこまで危険ではなかったようです。
明智光秀の旅行を追体験してみよう
京都醍醐寺の僧は、帰途で明智十兵衛のいた美濃を通過していますので、そこから琵琶湖を渡るまでを追ってみましょう。
・10月22日
昼休み小遣い(昼食)以下46文 場所不明。・美濃井ノ口 「旅籠」60文
10月23日
・井ノ口 「旅籠」60文10月24日
・(場所不明)
「小遣い」14文 「旅籠」60文・(場所不明)
10月25日
「小遣い」14文 (場所不明)
・下坂 「駄賃 下坂まで」80文 「旅籠」60文
10月26日
・大浜 「旅籠」60文
10月27日
琵琶湖横断、西岸の坂本へ渡る「船賃300文」・坂本 「旅籠」60文
(10月28日)
「小遣い」30文
こうしてみると、岐阜から滋賀県にかけての旅籠(ホテル)料金が六十文と一定している事に気が付きます。当時、岐阜県から滋賀県をまとめて支配している戦国大名の勢力はないので、これは戦国大名が決めた旅籠の費用ではなく当時の市場価格と考えられます。旅籠価格は、地域によってバラつきがあるものの、上は八十文から下は二十文と、4倍程度の差であり、旅行に絶対的な支障が出る格差ではありません。
ちなみに駄賃というのは、馬に乗ったり、人を雇ったりするときの経費で、12000円くらいになります。
ちなみに、当時の一文は150円くらいなので一泊九千円ですね。ちなみに旅籠料金には二食がついているようです。
本文の冒頭に出てくる昼休みとは昼食の事で、四十六文と出ています。これは現代価格で6900円という事ですが、幾らなんでも高いので同道者がいた可能性が考えられるそうで、一人十文が相場、と言う事は5人弱で昼飯を食べた事になり、一人だと1500円になります。
大河ドラマでも描かれた琵琶湖渡海ですが、こちらは三百文で現在価格でも45000円とそれなりに高価ですが、琵琶湖渡りは、アミューズメント的な価値もありそうなので、遊覧料も込みと考えていいでしょう。
光秀の旅行費用は○○円
では、肝心の明智光秀の旅にはいくら掛かったかを考えます。ドラマの中で、光秀は母の牧に「長くても二月は掛からない」と言っていましたから、およそ60日を前提として考えてみましょう。永禄六年北国下り遣足帳の僧侶は、丸一年を掛けて京都から北陸を旅して旅費の僧額が十四貫八十一文となっています。これを現在価格に直すと、2,112,150円という金額が出てきますので、これを60日計算すると、352,025円が算出されました。
道三が半分返せと言ったという事は、光秀は17万円を返済すればいいという事でしょうか?うーん、、侍大将の首二つで17万円が帳消しとは高すぎるような気がしますけどね。そんなに裕福そうではないとはいえ、叔父の光安に事情を話して頼めば、17万円位は何とか返済出来そうな気もしないでもないし、、でも、叔父に余計な心配を掛けたくない十兵衛は、自分だけで何とかしようと無謀な道三の提案を受けたのでしょうか?
まあ、斎藤道三のドケチぶりを強調する上では丁度いい価格なんでしょうか。
意外に整備されていた当時の宿泊施設
永禄六年北国下り遣足帳を参考に、十兵衛光秀の旅を見ると、戦国時代でも京都から北陸にかけては、貴人という程ではない人でも利用できる、旅籠や寺社などがあり、所々不便な土地はあるにせよ、かなり快適に旅を続けられる事が分かります。もっとも、それも金があればの話ですし、道中には夜中は通れない場所や、昼なお暗き、盗賊が出没する土地もあり、だからこそ、醍醐寺の僧侶は時に、集団で旅をしていたとも考えられ、或いは太刀を佩いたりと最小限の武器は所持したかも知れません。
戦国時代ライターkawausoの独り言
史実の光秀は合戦前の移動でも、名所に立ち寄れば歌を詠んだり、感想を書き記すなど、実は風流な趣味人であった事が分っています。19歳の光秀の旅はフィクションですが、案外に、そういう部分は変わらず楽しみを見つけては、見聞を広めていたのかも知れません。
参考文献:中世後期の旅と消費『永禄六年北国下り遣足帳』の支出と場 小島道裕
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