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董卓を破った馬騰とはどんな人?薪売りから反乱軍の大将に大出世

2020年4月19日


 

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李信(キングダム)

 

キングダム』の(しん)は奴隷から5000人将まで成り上がっており、現在も出世街道(しゅっせかいどう)を昇っています。島耕作(しまこうさく)も平社員から会長にまで成り上がった所謂(いわゆる)、叩き上げの企業戦士として有名。

 

馬騰

 

実は、後漢(ごかん)(25年~220年)末期にも信のように貧しい身分から、朝廷ちょうてい
)
に仕える人物にまでなった人物がいました。その名は馬騰(ばとう)(しょく)(221年~263年)の将軍である馬超(ばちょう)の父です。今回は馬騰の生涯について解説します。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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薪売りから反乱軍の大将になる馬騰

歴史書をつくる裴松之

 

馬騰に関する史料は乏しく、正史『三国志』に注を付けた裴松之(はいしょうし
)
が持って来た『典略(てんりゃく)』という史料や『後漢書(ごかんじょ)』を頼りにするしかありません。

水滸伝って何? 書類や本

 

生まれは隴西郡(ろうせいぐん)だったらしく、父は漢人(かんじん)・母は羌人(きょう)です。前漢(ぜんかん)(前202年~後8年)の将軍である馬援(ばえん)の子孫と称していますが、本当か分かりません。身長は約192センチ。体格だけでなく顔も鼻も大きかったようです。また、性格も良かったと史料には記されています。

 

父の馬子碩(ばしせき)は役人として働いていましたが、後に官位を失い無職。この理由については一切記されていませんが、よほど馬騰や馬超にとって不名誉なことだったのでしょう。

 

その証拠が『典略(てんりゃく
)
』に記されている「産業無し」という記述です。これは農民だったら「土地」、商人だったら「元手」、職人だったら「道具」・・・・・・・

 

上記のように稼ぐための手段・道具がゼロなのです!つまり、馬騰や家族は住んでいた土地から追い出されたと分かります。

 

祁山、街亭

 

貧乏になった馬騰は自給自足の生活に追いやられました。毎日、どこかの山に入っては薪を拾って売るしかありません。マッチ売りの少女ではなく、薪売りの馬騰でした。

行軍する兵士達b(モブ)

 

やがて時は流れて中平4年(187年)、涼州(りょうしゅう)刺史(しし)恥鄙(こうひ)が不正な官吏(かんり
)
を信任したことから韓遂(かんすい
)
北宮伯玉(ほっきょくはくぎょく)王国(おうこく)辺章(へんしょう)李文侯(りぶんこう)が反乱を起こしました。

馬騰と韓遂

 

馬騰は当時、恥鄙(こうひ)配下の武将でした。しかし恥鄙が敗走して殺害されると、混乱の最中に独立します。馬騰はそのまま韓遂(かんすい)と連合してしまいました。

 

漢軍との決戦

出世した韓遂

 

韓遂・馬騰が率いる反乱軍は皇甫嵩(こうほすう
)
を撃退。負けた皇甫嵩はクビにされて戦線を離脱します。次にやって来たのは張温(ちょうおん
)
袁滂(えんぼう)周慎(しゅう しん)董卓(とうたく)です。袁滂は袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)とは関係ありません。曹操(そうそう)配下の袁渙(えんかん
)
の父です。しばらく戦っていたのですが、空を見上げた反乱軍は「縁起の悪い星が出ている!」と『北斗の拳』の死兆星(しちょうせい)のようなことを言って逃げ出します。

 

董卓

 

「賊軍は逃げているぞ、やっちまえ!」と周慎と董卓は2方向から襲い掛かります。

兵糧を運ぶ兵士

 

実はこれが馬騰と韓遂が仕掛けた罠だったのです。漢軍は反乱軍を追いかけたせいで、兵糧庫(ひょうろうこ)から切り離されてしまったのでした。最初に「縁起の悪い星が出ている!」と言ったのはただのニセ情報。官軍(かんぐん
)
はすっかりだまされたのです。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

気付いた時には、もう遅い。官軍は反乱軍の本拠地に入り過ぎてしまい、馬騰・韓遂から袋叩き!周慎軍は壊滅・・・・・・董卓はどうにか逃げることに成功したようでした。

 

朝廷に召し抱えられる

李カク(李傕)と馬騰

 

董卓を撃退後、反乱軍は内ゲバのために壊滅。生き残った韓遂と馬騰は手を組んで董卓と貿易関係を築き上げます。董卓の死後も李傕と手を結ぼうとしますが、彼は董卓のような良い関係は築くことはできませんでした。

 

馬騰

 

馬騰と韓遂は義兄弟の契りを交わすほど仲が良かったのですが領土問題で仲違いしてしまい、建安(けんあん
)
元年(196年)に韓遂が馬騰の妻子を殺害する事件を起こします。この事件で馬騰と韓遂の仲は完全に決裂。馬騰は曹操配下の鍾繇(しょうよう)張既(ちょうき
)
に助けを求めます。

 

馬騰と曹操

 

さすがの馬騰も長年の戦いに嫌気がさしたのか、後漢(ごかん)に忠誠を誓うことを約束します。他の西涼(せいりょう
)
の暴れ者に比べると随分とあっさりとした人でした。建安13年(208年)に馬騰は入朝しました。この時は、本拠地を離れることを嫌がりましたが説得を続けた結果、やっと来てくれます。

 

梁興と馬騰

 

彼は「長楽衛尉(ちょうらくえいい)」という官職を与えられました。これは官職名だけであり実権はありません。要するに名誉職です。しかし、薪売りから名誉職を与えられる人物になるなんて大したものです。

 

悲劇の最期

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

だが、馬騰には悲劇が待ち受けていました。それは息子の馬超(ばちょう)の反乱でした。馬超はかつて馬騰がタッグを組んだ韓遂(かんすい)をそそのかして反乱を起こしたのでした。馬超は韓遂と義理の親子関係を結んで挙兵したのです。

 

馬超にいちゃもんをつける楊柏

 

もちろん偽りの親子による挙兵は失敗。馬超・韓遂ペアは逃亡しました。終戦後、馬騰もただでは済まされませんでした。子の不始末は親がとるものでした。建安17年(212年)に馬騰は息子の反逆罪の責任をとらされて処刑されました。享年(きょうねん
)
不明。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

馬超の反乱は父の馬騰が死んだことが曹操(そうそう)により殺害されたことが原因となっています。しかし、正史『三国志』を読み直すと馬騰の死は馬超にあったことが分かります。

 

蜀では結果が出せない馬超

 

馬超は失敗した時のことを考えなかったのでしょうか?それとも父の馬騰が嫌いだったのでしょうか?読者の皆様はどう思われますか?

 

※参考文献

・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 後に『三国志きらめく群像』 ちくま文庫 2000年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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