『キングダム』の信は奴隷から5000人将まで成り上がっており、現在も出世街道を昇っています。島耕作も平社員から会長にまで成り上がった所謂、叩き上げの企業戦士として有名。
実は、後漢(25年~220年)末期にも信のように貧しい身分から、朝廷に仕える人物にまでなった人物がいました。その名は馬騰。蜀(221年~263年)の将軍である馬超の父です。今回は馬騰の生涯について解説します。
薪売りから反乱軍の大将になる馬騰
馬騰に関する史料は乏しく、正史『三国志』に注を付けた裴松之が持って来た『典略』という史料や『後漢書』を頼りにするしかありません。
生まれは隴西郡だったらしく、父は漢人・母は羌人です。前漢(前202年~後8年)の将軍である馬援の子孫と称していますが、本当か分かりません。身長は約192センチ。体格だけでなく顔も鼻も大きかったようです。また、性格も良かったと史料には記されています。
父の馬子碩は役人として働いていましたが、後に官位を失い無職。この理由については一切記されていませんが、よほど馬騰や馬超にとって不名誉なことだったのでしょう。
その証拠が『典略』に記されている「産業無し」という記述です。これは農民だったら「土地」、商人だったら「元手」、職人だったら「道具」・・・・・・・
上記のように稼ぐための手段・道具がゼロなのです!つまり、馬騰や家族は住んでいた土地から追い出されたと分かります。
貧乏になった馬騰は自給自足の生活に追いやられました。毎日、どこかの山に入っては薪を拾って売るしかありません。マッチ売りの少女ではなく、薪売りの馬騰でした。
やがて時は流れて中平4年(187年)、涼州刺史の恥鄙が不正な官吏を信任したことから韓遂・北宮伯玉・王国・辺章・李文侯が反乱を起こしました。
馬騰は当時、恥鄙配下の武将でした。しかし恥鄙が敗走して殺害されると、混乱の最中に独立します。馬騰はそのまま韓遂と連合してしまいました。
漢軍との決戦
韓遂・馬騰が率いる反乱軍は皇甫嵩を撃退。負けた皇甫嵩はクビにされて戦線を離脱します。次にやって来たのは張温・袁滂・周慎・董卓です。袁滂は袁紹・袁術とは関係ありません。曹操配下の袁渙の父です。しばらく戦っていたのですが、空を見上げた反乱軍は「縁起の悪い星が出ている!」と『北斗の拳』の死兆星のようなことを言って逃げ出します。
「賊軍は逃げているぞ、やっちまえ!」と周慎と董卓は2方向から襲い掛かります。
実はこれが馬騰と韓遂が仕掛けた罠だったのです。漢軍は反乱軍を追いかけたせいで、兵糧庫から切り離されてしまったのでした。最初に「縁起の悪い星が出ている!」と言ったのはただのニセ情報。官軍はすっかりだまされたのです。
気付いた時には、もう遅い。官軍は反乱軍の本拠地に入り過ぎてしまい、馬騰・韓遂から袋叩き!周慎軍は壊滅・・・・・・董卓はどうにか逃げることに成功したようでした。
朝廷に召し抱えられる
董卓を撃退後、反乱軍は内ゲバのために壊滅。生き残った韓遂と馬騰は手を組んで董卓と貿易関係を築き上げます。董卓の死後も李傕と手を結ぼうとしますが、彼は董卓のような良い関係は築くことはできませんでした。
馬騰と韓遂は義兄弟の契りを交わすほど仲が良かったのですが領土問題で仲違いしてしまい、建安元年(196年)に韓遂が馬騰の妻子を殺害する事件を起こします。この事件で馬騰と韓遂の仲は完全に決裂。馬騰は曹操配下の鍾繇・張既に助けを求めます。
さすがの馬騰も長年の戦いに嫌気がさしたのか、後漢に忠誠を誓うことを約束します。他の西涼の暴れ者に比べると随分とあっさりとした人でした。建安13年(208年)に馬騰は入朝しました。この時は、本拠地を離れることを嫌がりましたが説得を続けた結果、やっと来てくれます。
彼は「長楽衛尉」という官職を与えられました。これは官職名だけであり実権はありません。要するに名誉職です。しかし、薪売りから名誉職を与えられる人物になるなんて大したものです。
悲劇の最期
だが、馬騰には悲劇が待ち受けていました。それは息子の馬超の反乱でした。馬超はかつて馬騰がタッグを組んだ韓遂をそそのかして反乱を起こしたのでした。馬超は韓遂と義理の親子関係を結んで挙兵したのです。
もちろん偽りの親子による挙兵は失敗。馬超・韓遂ペアは逃亡しました。終戦後、馬騰もただでは済まされませんでした。子の不始末は親がとるものでした。建安17年(212年)に馬騰は息子の反逆罪の責任をとらされて処刑されました。享年不明。
三国志ライター 晃の独り言
馬超の反乱は父の馬騰が死んだことが曹操により殺害されたことが原因となっています。しかし、正史『三国志』を読み直すと馬騰の死は馬超にあったことが分かります。
馬超は失敗した時のことを考えなかったのでしょうか?それとも父の馬騰が嫌いだったのでしょうか?読者の皆様はどう思われますか?
※参考文献
・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 後に『三国志きらめく群像』 ちくま文庫 2000年)
※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。この記事以外のことでも、何か気になることがあったら気軽にコメントしてください。お答え出来る範囲でしたら回答いたします。
関連記事:馬騰(ばとう)とはどんな人?馬超のパパで知られる荒れ地の猛将
関連記事:馬騰|北方異民族と戦う西の豪傑達にもっと光をを与えてみた