正史三国志を含め、三国志演義などを読んで色々な英雄たちが出てくる群雄割拠の時代に思いを馳せる人は多いと思います。その中から「英雄」を選ぶとなるといったいどんな名前が挙がるでしょうか?
いいえ、本題から言いますとそこで「英雄として袁紹」を挙げる人は殆どいないのではと思います。確かに袁紹は大体「名門だけの人物」「優柔不断で家を潰した暗君」などと言われることがあります。
今回はそんな袁紹を少しばかりフォローしたいと思います。
「袁紹 英雄」
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この記事の目次
袁紹の評価
まずは三国志と言えばこの人、陳寿の評価を見てみましょう。
実は陳寿は三国志において袁紹を「威容堂々、名声天下に轟く人物」としています。
が、その一方で劉表と並べられて「決断力に欠けている。優れた人がいても使うことができない。跡継ぎ問題で揉めた。だから死後に子孫が困って領地を失った」と言われており、曹操や孫権の後継者問題の際にまでもこの袁紹と劉表の話を引き合いに出されるほどです。
統治者としての袁紹
しかし後継者問題でやらかした袁紹ですが、後の世に「袁紹様の治世が懐かしい」と言われていたことから、統治者としては実は曹操すら凌いでいたのでは?とも思われることがあります。
国の民に慕われているというのは統治者として大事なことであり、戦う際に敵国は非常に攻めあぐねます。このこともあってか、曹操は袁紹が生きている間は自ら袁紹と戦うようなことは避けていた節もあるのです。
もしかしたら曹操はその点に関して袁紹を強敵として評価していたのではないでしょうか。
当時としては「異質な」袁紹
さてここでちょっと群雄割拠のこの時代を見返してみましょう。
当時としては、各所で小競り合いはあったとしても積極的に他の領土に攻め入ろうとする人物は意外にも少なかったのです。しかし袁紹は違いました。
袁紹は河北で公孫サンらと積極的に対決し、領地を確保するという「優柔不断な人物」とは思えない行動力を見せています。この辺は見直すと「決断力に欠ける人物」とは思えない人物であったと思いますね。
袁紹はどうして献帝を迎えなかった?
一方で、曹操や董卓のように献帝を迎えなかったのかという疑問点も残ります。そこで気にかかったのが袁紹の出生。
実は名家のお坊ちゃんのイメージが強い袁紹ですが、母親は身分の低い女性であったと言われており、袁紹に才能がなければ歴史に名前は残らなかった立場だろうとも言われているのです。
このため袁紹は実は身分の高い人物にコンプレックスがあり、自らの才覚で成し遂げようと思っていたのではないでしょうか?だからこそ袁紹はむしろ攻め手に回って何かを成し遂げようとしていたと考えると、その積極的な勢力拡大にも納得がいくと思います。
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