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楊阜の復讐計画
主人を殺された楊阜は怒りに燃えて馬超に対する復讐を誓います。しかし、やりたくても簡単に出来るものではありません。そんなある日、楊阜の妻が亡くなります。馬超から休暇をもらった楊阜ですが妻の故郷には行かずに親族の姜叙の屋敷を訪問しました。
姜叙は天水郡の有力一族である「天水四姓」の1人です。ちなみに蜀(221年~263年)の将軍となった姜維も天水四姓の出身なので、この人は姜維と同族です。楊阜は姜叙とその母に、主人の韋康を殺された悔しい思いを打ち明けました。その姿を見た2人は楊阜に協力することにしました。姜叙はすぐに姜隠・趙昂・尹奉・姚瓊・孔信・李俊・王霊・梁寛・趙衢に呼びかけました。
姜隠・趙昂・趙衢は姜叙と同じ天水四姓。梁寛は馬超と一緒に曹操に反乱を起こして死んだ梁興の親族。梁興とは違って曹操に服従していたのでしょう。こうして仲間を集めた楊阜は時を待つだけでした。
楊阜の反乱
建安19年(214年)になると楊阜と姜叙は挙兵します。馬超は冀城から出陣する決意を固めますが、その際に趙昂の息子の趙月を預かりました。要するに人質です。
趙昂は妻の王異に楊阜の謀略の件を話しました。王異は「三国無双」シリーズに登場するキャラクターであり賢い女性として有名でした。王異は「趙月のことは覚悟するべきです・・・・・・」と答えました。妻の言う通り趙昂は腹をくくることにしました。
一方、冀城に残っていた梁寛と趙衢は馬超の妻子・親族を襲撃して全て殺害しました。馬超の親族で、この時に助かったのは従弟の馬岱と張魯に人質にされていた子の馬秋だけでした。
決戦 馬超VS楊阜
冀城で反乱が起きたことを知った馬超は怒って人質にしていた趙月を殺害。王異の予感は的中したのでした。馬超は楊阜と姜叙が立てこもる城を攻撃開始。ここに2人の最後の戦いが始まりました!だが、異民族の馬超は騎馬隊は強くても攻城戦となると不利です。腹いせに馬超は姜叙の屋敷を襲撃!姜叙の母を引きずり出しました。
ところが姜叙の母は気丈にも、「お前は父の馬騰を殺し、天下に背いた。なぜ早く死にもしないんだ!」と叫びます。まさに母は強し!
ちなみに私の母もこんな人です・・・・・・
キレた馬超は姜叙の母を殺害。家族を殺されたとはいえ、馬超はもは1人に対してやり過ぎです。
むなしき勝利
楊阜は馬超と直接戦い、その身体に五か所も傷を受けました。馬超と闘える時点で、「無双シリーズ」採用です。だが、ようやく夏侯淵が援軍として来てくれたのです。援軍に2年なんて遅すぎ・・・・・・。馬超は夏侯淵の前に撃退され、漢中の張魯のもとへ逃走します。戦争には勝利しましたが、楊阜は趙月・姜叙の母、さらに一族の弟7人を失いました。
後に曹操から莫大な恩賞が与えられますが楊阜は、「自分は韋康様が存命中、馬超を防ぐことも出来ず、韋康様が殺されると死ぬことも出来ませんでした。道理からいって降格、法律では死罪です。しかも馬超を討ち取ることすらできませんでした。恩賞を受けるわけにはいきません」と辞退します。
しかし曹操が説得したので、ようやく恩賞を受け取ってくれたそうです。楊阜はその後、魏(220年~265年)の第2代皇帝曹叡の時代まで生きました。享年不明。
三国志ライター 晃の独り言
楊阜と馬超の戦いは韋康に対する敵討ちにしか見えませんが、実は異民族間の内ゲバ争いでもありました。この時期の涼州は中央に従うか、このまま地方政権として維持するか異民族間で争いがあったと考えられています。
例えば楊阜の一族と考えられている楊秋は、1度は曹操に叛旗を翻しますが間もなく中央政権に帰属して一生を終えていますし、楊阜と一緒に戦った梁寛は親族の梁興と違い曹操に叛旗を翻さずに中央に従っています。このように当時の涼州は、一族でも親曹操系と反曹操系の人物に別れていたと最近の研究では言われています。複雑なものですね・・・・・・
文:晃
※参考文献
・並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第1次『北伐』」(『駒沢史学』87 2016年)
・林田慎之介『人間三国志 豪勇の咆哮』(初出1989年 後に集英社文庫 1992年)
・堀敏一『曹操―三国志の真の主人公』(刀水書房 2001年)
・渡邉義浩『図解雑学 三国志』(ナツメ社 2000年)
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