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この記事の目次
兵士が攻めてきたよ!どうする姜えも~ん
1月18日の日中、胡烈の兵士が胡烈の子と軍鼓を打ち鳴らして出撃、これを合図に諸軍が応じ、命令もないのに一直線に成都城に殺到します。この時、鍾会は姜維に鎧を与えている最中でしたが、伝令が外の兵が城を襲っていると報告すると鍾会は驚き、
「兵が来て悪事をしようとしているが、どうすればいい!」と姜維に質問、姜維は「ただこれを撃つだけです」 と答えています。
いやいやいや、兵が攻めてきたどうしようって、、そんな将軍いますか?もう、これだけでも鍾会が小さな部隊さえ指揮した事がない事が分かります。そんなので、天下を獲れなくても要害に籠って守れば劉備くらいにはなれるなんて、よくも言えたもんですね。
今頃になり、牙門と郡守を殺そうとするが手遅れ
この頃になって鍾会は、兵を派遣して幽閉した牙門・郡守を殺させようとしますが、内側では、人が共に机を重ねて柱門としており、兵は門を切っても破れません。ぐずぐずしている間に、門外では梯子を倚せて登城して城内に突入し城屋を焼き、縄梯子を下ろして、兵士は蟻のように連なり城内に侵入、矢は雨の如く下り、牙門と郡守は各々屋根にすがって脱出し、その卒兵を指揮しました。
姜維は、さすがたたき上げであり、指揮も取れない鍾会の左右の者を率いて戦い自ら五、六人を殺しましたが、多勢に無勢、兵士は姜維を斬殺すると、今度は争って鍾会を殺しに赴いて滅多殺しにします。こうして、素人将軍鍾会は40年の生涯を閉じました。
三国志ライターkawausoの独り言
鍾会は、諸葛亮に信任された馬謖同様に、参謀であっただけで軍を率いた経験はありません。それが、司馬昭の好意で叩き上げの鄧艾を副官に付けられて、実際に兵を指揮する事なく、すんなり勝利したのが蜀攻めでした。仮に反乱が成功していても、鍾会は指揮が取れないので姜維に軍権を握られ、どこかの段階で殺害されてしまい、どの道、長生きできない運命でしょうね。
参考文献:正史三国志
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鍾会(しょうかい)・年表
所属:魏(ぎ)
姓名:鍾会(しょう かい)
字:士季(しき)
出身地:豫州潁川郡長社県(えいせんぐんちょうしゃけん)
生没年:225年 - 264年3月3日
関連年表:
245年:20歳で朝廷に出仕
254年:曹髦即位に「関内侯」の爵位が与えられる
255年:司馬師に重用され、毌丘倹の反乱を鎮圧
257年:文欽・諸葛誕の反乱を鎮圧
262年:鎮西将軍・仮節・都督関中諸軍事を拝命
263年:司馬昭の命で蜀征伐に出陣。姜維を降伏させる
264年:反乱の兵を上げるも失敗、戦死