伊達政宗とはどんな人?生い立ちから最期、性格などすべて丸わかり!

2020年7月13日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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伊達政宗

 

伊達政宗(だてまさむね)について解説します。奥州の覇者で独眼竜(どくがんりゅう
)
、また初代仙台藩主として有名な伊達政宗。あと20年早く生まれたら天下を取っていたかもしれないと言われる人物とは、実際にどんな人生を歩んでいたのか?数々のエピソードから検証して行きます。

 

誕生と物心ついた時に起こった右目失明

 

伊達政宗は1567(永禄10)年8月3日に米沢城(出羽の国)の伊達輝宗(だててるむね)の嫡男として生まれました。政宗の先祖伊達氏とは鎌倉時代から続く名家で、初代・伊達朝宗(だてともむね)は、源頼朝(みなもとのよりとも)と共に戦い、奥州藤原氏との奥州合戦で活躍しました。それから政宗まで16代に渡って奥州の地を治めます。

 

幼名は梵天丸、「独眼竜」との異名を持つきっかけとは?

 

幼名は梵天丸(ぼんてんまる)。母・義姫(よしひめ)は、出羽の戦国大名、最上義光(もがみ よしあき)の妹で、正室の子のため、生まれながらに伊達家を継ぐことが決まっていた政宗。しかし5歳の時に最初の悲劇に見舞われ、天然痘を発病しました。病気は回復したものの、それが原因で右目を失明します。これが政宗に「独眼竜」との異名を持つきっかけとなりました。

 

独眼竜の異名の由来は李克用

 

元々は中国の唐王朝の末に活躍した軍閥・李克用(りこくよう)の異名です。これを江戸時代後期の儒学者・頼山陽(らいさんよう)の漢詩で政宗を題にとったものがあり、そこから「独眼竜政宗」として広まりました。

 

大河ドラマなどの時代物で、政宗は刀鍔型の眼帯をしているシーンが多いのですが、実際に覆っていたという記録は残っていません。ただ明らかに左目と比べて白濁した目の開きが悪いことから、政宗の希望により右目を黒く描いている肖像画が存在します。

 

ちなみに失明した右目を自らえぐり出したという逸話もありますが、実際には家臣の片倉景綱(かたくらかげつな)が、政宗の命に従い、小刀で右目を突きつぶしたと伝わります。この人物は、その後政宗の軍師の役割を果たしました。

 

十代で家督・奥州支配・20年遅れの英雄

 

1577(天正5)年の10歳の時に元服し、伊達藤次郎政宗と名乗ります。頼朝以来の名家である伊達家では、父・輝宗のように足利将軍家の名前をもらうならわしがありましたが、足利将軍がすでに追放されていたため政宗はそれではなく、伊達家9代政宗の名前をもらっています。この人は南北朝時代の伊達家中興の祖とされた人物。その活躍にあやかって名乗りました。

 

1579(天正7)年13歳:正室の愛姫を迎える

 

そして1579(天正7)年13歳のときには早くも正室の愛姫を迎えています。これは政宗の又いとこにあたる人物。1581(天正9)年に初陣を飾りました。この頃から父に代わり、近隣大名との外交を政宗が担当したと伝わります。1584(天正12)年に父の引退による家督相続。以降政宗は、領土拡大の戦いを続けて行きます。近隣の大内(おおうち)畠山(はたけやま)蘆名(あしな)と言った近隣諸大名と戦います。

1587(天正15)年12月:豊臣秀吉は私戦禁止令を発令

豊臣秀吉 戦国時代

 

戦いと交渉の中、父・輝宗が途中で殺害され、政宗は一時窮地に追い込まれますが、やがて盛り返していきます。1587(天正15)年12月になると、関白となっていた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、私戦禁止令を伊達家と関東の北条家に発令します。しかし政宗はこれを拒否。以降2年間の間に、現在の福島県の中通り・会津、山形県の置賜、宮城県南部を勢力下に。周辺の小領主も政宗の支配下に置きました。

 

小田原攻め遅参のピンチ!秀吉に見せた技

足軽a-モブ(兵士)

 

中央の秀吉政権を無視して独自の勢力を広げて行った政宗ですが、ついに秀吉からの強い命令が下ります。1590(天正18)年に、秀吉は小田原の北条家を討つべく関東に向けて大軍を率いて出陣。この軍に参陣し秀吉の傘下に入るか、小田原の北条氏と共に戦うかの選択に迫られます。

 

圧倒的な軍事力の前に政宗は秀吉に従うことを決意。ところが秀吉側からはすでに政宗に対して不信感を持っていました。政宗は私戦禁止令(惣無事令)を破っており、以降も戦いを続けていたことから、秀吉の腹の内では北条とは別に伊達討伐も考えていました。

 

前田利家

 

しかし前田利家(まえだとしいえ)らの取り成しがあり、また小田原と対峙するさいに、若く勢いのある伊達と敵対することを秀吉が避けたとも伝わります。

 

千利休に茶を習いたいと訴える伊達政宗

千利休

 

とはいえ、遅参したこともあり厳しい結果を生む可能性がある状況。ここで政宗は一計を案じ、政宗は秀吉との面会時に死に装束で現れます。そしてその覚悟を伝える一方で、千利休(せんのりきゅう)に茶を習いたいと訴えました。それを見た秀吉が感嘆します。政宗は秀吉の傘下に入ると、まもなく小田原の北条家は滅亡。秀吉はついに天下を統一します。この際政宗は一部の領土が召し上げられたものの、72万石を安堵されました。

 

「伊達もの」の由来は朝鮮出兵

戦場で活躍する伊達政宗

 

秀吉政権下に入った政宗は、1591(天正19)年に早くもピンチを迎えます。秀吉の奥州仕置により改易された、葛西・大崎の旧臣が葛西大崎一揆と呼ばれる反乱を起こします。この一揆は政宗が平定しますが、実は政宗が一揆を扇動したという情報が流れます。

 

詰問を受けた政宗は京都に上洛、扇動などは行っていないと弁明します。このときも政宗は死に装束。加えて黄金の磔柱を先頭にするという「奇策」が功を奏して疑いが晴れます。58万石に厳封されたものの、代りに秀吉が使っていた羽柴の苗字を与えられました。

 

1593(文禄2)年に朝鮮出兵(文禄の役)

 

1593(文禄2)年には朝鮮出兵(文禄の役(ぶんろくのえき))が開始され、秀吉の命により政宗も出陣することになります。そして3000(1500とも)の兵を奥州から攻撃の拠点・北部九州に向けて発進させました。ところが、その際の装束が大変派手で、絢爛豪華な装束に身を包んだ部隊との記録があります。多軍勢との違いに京都などの住民が歓声を上げたほど。そのため派手な装いをする人たちを「伊達もの」と呼ぶようになりました。

 

そして政宗はそのいでたちだけではありません。遠方から来たため、本来免除されていた普請などを積極的に行う活躍を見せます。ちなみに2度目の慶長の役について、政宗は参陣しませんでした。

 

秀次事件を切り抜け関ヶ原は東軍に

 

政宗は、天下統一直前に秀吉政権下に入ったため、政権内での地位は低かったのですが、秀吉に代って関白となった豊臣秀次(とよとみひでつぐ)とは親しい関係を築いていました。ところがこれが仇となります。秀次が秀吉から謀反の疑いを掛けられ切腹させられました。そのため親しい政宗も関与が疑われてしまい、伊予への減封も検討されます。

 

しかし伊達家の家臣による直訴のおかげで赦免されました。このとき重臣19名の連署で政宗が謀反の疑いがあれば隠居させられるという誓約を交わされます。それだけ政宗を怖れていた豊臣政権ともいえましょう。

石田三成と伊達政宗の関係性

石田三成

 

ちなみに政権の中枢にいた石田三成(いしだみつなり)との関係ですが、かつて政宗が傘下に加わる前に、三成が討伐の準備を進めていたとの記録が残っています。とはいえ実際には不仲ではなく、政宗と豊臣政権の取次役だった浅野長政(あさのながまさ)と絶縁したあと、代りに面倒を見たのが三成でした。そのため政宗は三成が嫌いというわけではありません。

 

徳川家康

 

しかし政宗は秀吉亡き後に、天下を狙うために動き出した徳川家康(とくがわいえやす)と三成の動向を見ながら最適な方法を模索。家康は政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝(まつだいらただてる)を婚約させます。そして関ヶ原の合戦のきっかけとなる上杉景勝(うえすぎかげかつ)討伐軍の先陣を切りました。奥州各地で再び合戦が行われ、上杉らと戦います。

 

先見の明!ヨーロッパに支倉常長を派遣

 

関ヶ原で戦ったわけではありませんが、政宗はここぞとばかり奥州で徳川方として暴れ回ります。家康の時代となり、政宗は計4万石を加増され62万石の大名となります。家康の許可を得た政宗は、1601(慶長6)年に、仙台に居城を移します。ここに仙台藩が成立。初代藩主が政宗です。これは前田、島津に次ぐ領土を持つ大大名。

 

江戸幕府との交際が増えて行きますが、情報収集の狙いもありました。その一方で、仙台の開発を進め、100万人規模の大工事と伝わります。こうして仙台の町が出来上がった頃、一隻のスペイン船が千葉県南部に漂着。幕府は彼らを助けました。しかしスペインの植民地化を怖れ、提案されていた通商を行わず、そのまま送り返します。このときにちょうど江戸にいた政宗は、寵愛していた侍女の病気治癒をきっかけに知り合ったルイス・ソテロ修道士と親しくなりました。ソテロは政宗の招きにより、わざわざ仙台に出向いたほどです。

 

伊達政宗は石巻にて艦を建造

 

そんな交流などがきっかけとなり、政宗は石巻にて500トンを超える軍艦を建造。そして1613(慶長18)年に家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を外交使節とし、ソテロら180人を仙台から、メキシコ、スペイン、そしてキリスト教カトリックの総本山ローマに派遣します。ついにローマ教皇パウロ5世に謁見した常長でしたが、1620(元和6)年の日本帰国時にはキリスト教の禁教がさらに進んでいました。その結果、失意のうちにその2年後に没します。

 

大阪の陣で見せた活躍

 

常長らが欧州に派遣されている間、日本国内では幕府と豊臣家との関係が悪化。ついに大坂の陣が開始されます。政宗も幕府側として参戦。大和口方面軍として相対します。そして冬の陣終了後に、大阪城の外堀を埋める役を担いました。

 

真田丸 真田幸村

 

夏の陣では主に真田軍と激突します。失うもののない真田幸村(さなだゆきむら)の反撃に、さすがの政宗も後退。この際になぜか幕府側として参陣していた水野勝成(みずのかつなり)()らの兵を300人ほど打ち取ってしまいます。この味方討ちに抗議されるも、政宗は開き直りまました。味方が総崩れになった際に、自軍が巻き込まれるのを防ぐために行ったこと。これが伊達の軍法であると主張したことが「薩藩旧記(さっぱんきゅうき)」に記録されています。

 

大坂の陣の後、政宗の庶長子(側室の長男)であった伊達秀宗(だてひでむね)に、伊予国の10万石分が与えられました。これが宇和島藩の興りです。また豊臣方として戦った幸村の次男・真田守信(さなだもりのぶ)らを伊達家に召し抱えました。

 

平和な時代に嗜んだ料理

 

大坂の陣が終わった後は戦もなく、政宗は領国仙台の開発に力を入れます。運河の整備や北川水系の流域を開拓するなどして領内の石高も増えて行きました。そんな中、政宗はあるものに興味を示すようになります。それは「料理」。政宗は毎朝城内にあるトイレ付の閑所という小部屋に籠って、毎日の献立を考えていたと伝わります。

 

仙台名物「ずんだ餅」

 

政宗由来の料理の中には現在も仙台の名物となっている「ずんだ餅」、米麹を使った辛口の「仙台味噌」、また豆腐を凍らせた「凍り豆腐」は、兵糧用の保存食として政宗が目をつけました。そのほか「伊達巻」も政宗が名づけたと言われていますが、これは諸説あり不明。ただ政宗名づけ説とは別に、「伊達もの」からの派生として、派手な玉子焼きから名づけられたという説もあり、政宗の影響の大きさがうかがえます。

 

そのほか、政宗は江戸の屋敷に将軍を招待して料理で歓待することで、将軍家との関係を強固なものにしました。2代将軍・徳川秀忠に自ら膳を運ぼうとしたときに、側近に「毒見がまだ」と止められるも、「毒で天下を取るなど昔も今もあり得ない」と激怒します。これに秀忠は、政宗の忠誠心を感じ取りました。また3代家光(いえみつ)の時代には、計54種類もの料理を用意。鶴の吸い物には鶴の脚を添えるなどの工夫を凝らしました。

教養人しての顔ももっていた伊達政宗

 

戦国武将としての顔が強い政宗ですが、教養人としての顔がうかがえます。元服前の幼少時、虎哉宗乙(こさいそういつ)という禅僧に師事。彼は、政宗の大叔父にあたる東昌寺住職との接点があったので、父・輝宗からの要請により政宗の学問の師として奥州に来ました。以降政宗に付き従い、終生師弟関係を維持しています。

 

また芸事、特に能に傾倒しました。例えば奥小姓を能の演目で使用する太鼓の名人に弟子入りさせて、学ばせたほどです。実際に政宗は秀吉や家光の前で能の太鼓を打ちました。また和歌にも精通しており、秀吉が吉野で茶会を開く際にももっとも優れていたとも。さらに漢詩にも興味を示しており、政宗の作として晩年に残した「酔余口号」が知られています。

 

そのほか美術への造詣も深く、秀吉の桃山時代に花開いた「桃山文化」を特に好みました。日本刀も名刀と呼ばれるものを収集。先代お抱えの刀工をわざわざ山城の国まで派遣し、名工・越中守正俊(えっちゅうのかみまさとし)に学ばせるほどでした。さらに塩竈市にある旧家では、政宗が描いたと伝わる絵が現存しています。

 

三日月の兜・タバコなど政宗に関するエピソード

同年小録(書物・書類)

 

政宗のエピソードは数多く残されており、有名なところでは次のものがあります。ひとつめは政宗像に見られる兜についている大きな三日月。愛用の兜は現存しており、現在は仙台市博物館に保存されています。三日月は父・輝宗の願いがこめられました。当時神々の象徴とされていた月の加護を願ったと伝わります。

 

戦国大名の間では、頭上で輝き続ける北極星を神格化した妙見信仰が人気でした。兜に妙見菩薩という守護神を身につけることで、戦勝祈願を誓います。そして月がそのシンボルのひとつ。今では政宗の象徴のひとつとなっています。

 

火縄銃(鉄砲)

 

また政宗は愛煙家でした。タバコは戦国時代に火縄銃と共に種子島で伝わったとされ、キセルによる喫煙が主流。現在と違いタバコは薬として珍重されており、政宗は薬と思って毎日3回服用しています。そのほか政宗は健康に気を使っており、早朝目覚めても側の者が来るまで布団から出ないとか。あるいは冬の寒い時期に炬燵(こたつ)の片側を開けさせ、急激な温度の変化を防いだとされています。

 

徳川家光との関係性

 

戦国大名としての役目を終え、江戸初期の大名として3代家光の時代まで生き長らえた政宗。戦国時代の生き字引として家光からは「伊達の親父殿」と慕われます。2代将軍秀忠よりも年長者である政宗は、秀忠が家光よりも可愛がっていた弟の忠長を将軍にすべきか迷っていた際にも家光を推し、家光の後見人のような立場になっていました。

 

家光の将軍宣下の際にも、家光の言葉に対して政宗が率先して「だれも異論はもたない」と言ってひれ伏します。そのため他の大名もそれに従ったほどでした。戦国時代を知らない家光は、政宗ら戦国時代を知っている大名から当時のエピソードを聞くのが楽しみでした。その中でも政宗が良く呼び出されたひとりであったようです。

 

伊達政宗の最期

 

そんな政宗も最期のときが迫ってきました。1634(寛永11)年頃から食欲不振が怒り始め体調不良を訴え始めます。1636(寛永13)年には自らの最期を悟った政宗は、死後の埋葬場所を指定。そこには現在政宗廟である瑞鳳殿(ずいほうでん)があります。4月20日に参勤交代で江戸に向かったときには、重病となり絶食状態が続きました。心配した家光が、伊達屋敷に赴いて見舞ったほどです。しかし家光が見舞った3日後の5月24日の早朝6時、政宗はついに死去。2日後には嫡男の伊達忠宗(だてただむね)が、家督を継ぎ、仙台藩2代目藩主となりました。

 

番外:スターウォーズに登場するダース・ベイダーのモデルに政宗

龐統

 

伊達政宗には数多くのエピソードがあります。その中には政宗の死後300年以上が経過した、20世紀にも起こりました。それは1977年に映画監督・プロデューサのジョージルーカス氏が制作した「スターウォーズ」。

 

これは2019年まで9つのエピソードがある大作ですが、この中の悪役として絶大な存在感を放つのが暗黒卿ダース・ベイダー。実はこの独特のキャラクターのいでたちの一部、顔を隠すヘルメットとマスクが伊達政宗の兜を参考にして作られました。元となる兜は現在仙台市博物館所蔵の「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」。

 

1975年ごろにアメリカの映画関係者の依頼を受けて、この具足の写真をハリウッドに送りました。そしてスターウォーズシリーズの衣装・小物を紹介する「STAR WARS−THE MAGIC OF MYTH」でも、ダース・ベイダーのページに、はっきりと政宗の兜が紹介されています。

 

その背景には元々ジョージルーカスが、黒沢明(くろさわあきら)の作品にインスパイアされたといわれます。その結果、日本の戦国武将・政宗が時空を超え、海を渡って世界的な映画の重要な役割を担ったのでした。

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

伊達政宗は、奥州を支配した大名として数々のエピソードを残した人物。しかしさすがに20年前に生まれたとしても、東北というやや離れた場所ということもあり、天下を取るにいたったかは微妙だと考えられます。むしろ戦国末期から安土桃山、そして江戸初期という激動の時代だからこそ、政宗が輝いたのでしょう。

 

参考文献:

小林清治「伊達政宗の研究」吉川弘文館

高橋富雄「伊達政宗のすべて」新人物往来社

松田毅一「慶長遣欧使節 徳川家康と南蛮人」朝文社

滝澤美貴「万事に通じた教養人・政宗」

 

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Soyokaze

ライター自己紹介: 旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。 小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、 NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。 日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。 また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。 最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。 好きな歴史人物: 蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王) 何か一言: 勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。

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