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この記事の目次
伊籍のおはなし
そんな伊籍にも面白い話があります。伊籍はある日、呉への使者として訪れることになりました。呉の当主であった孫権は外交使者をからかうのが趣味な所があり、伊籍にも同じ態度をとりました。
「無道の君主に仕えて苦労するか?」と問いかけた孫権に伊籍は「一度拝礼して一度起き上がるだけのことです。何の苦労もありません」と即答したと言います。これ以外にも伊籍は孫権に対して機転を利かせて返答していたので、逆に孫権は伊籍に感心したと言います。外交官でありながらこの返答、しかも孫権相手に……伊籍もまたただ優秀なだけでなく、豪胆さと柔軟さを感じさせる人物ですね。
陸遜に匹敵したと言われる李厳
李厳もまた、劉表に仕えていました。その後は劉璋、そして劉備に仕えることとなります。李厳は文武両道の人でもあり、法律『蜀科』を定めるなどの活躍の一方で、劉備の漢中攻略中、成都南に防御を張って数万の賊軍や高定の挙兵を追い払うなどの活躍も見せています。
後には諸葛亮の南蛮制圧戦や北伐時の留守を預かり、その働きを諸葛亮は「陸遜に匹敵する」と評価するほどの人物でした。
ただしこの陸遜に匹敵するというのは三国志演義での言葉です。ですが三国志演義でそう言われるほど、李厳と言うのは優秀な人物でもあったのは間違いないでしょう。
「例外」の李厳
そんな李厳でしたが231年の諸葛亮の北伐中に李厳は兵糧支援を遅らせた事を隠すために「呉が攻めてきた」と報告しました。この嘘が発覚した際に諸葛亮は激怒、これは命令違反であり、斬首されてもおかしくない行動でした。
しかし李厳のこれまでの貢献、また周辺の豪族からの支援者が多かったため、諸葛亮は李厳を罷免し平民に落としたそうです。人物眼に定評のある劉備からの信頼も非常に厚く、法に厳格で公平な孔明が処断せず例外の将・李厳。
「李厳は性格がいい加減だ」と陳震から諸葛亮は忠告されたこともありましたが、それでも李厳を重要し、その才能を見込んでいました。面白いのはこの李厳もまた蜀科制定に関わったこと。曹操が人材を良く集めたのは有名ですが、蜀も蜀で色々な毛並みの人材がいたのですね。
三国志ライター センのひとりごと
諸葛亮、法正、伊籍、劉巴、李厳……彼らは多彩な経緯を経て劉備に仕えることとなりました。劉備は三国志演義でこそ正当な漢の後継者と言われていますが、三国志においてそれははっきりとしてはいません。また劉備自身も正統派主人公という訳ではなく、どちらかというと任侠っぽい人物。
そんな劉備の凄さは色んな人間を惹きつけたことではないでしょうか。多才な人物を惹きつけた劉備だからこそ、三国志演義で主人公格に据えられたのかもしれませんね。
参考文献:
蜀書劉巴伝 伊籍伝 李厳伝
零陵先賢伝
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