光おォ!もっと光ォォー天帝は暗い所がお嫌いだァ!
「はじめての三国志」の読者の皆さんこんばんわ、kawauso編集長です。
久しぶりに三国志のオリジナル記事を書かせて頂きます。今回は、三国志における曹魏の副首都、鄴は巨大な監獄だったのではないか?という話です。
この記事の目次
難攻不落な鄴は人質を軟禁するのに向く
鄴は曹操が西暦204年に袁尚から奪い取り、西暦220年に曹丕が洛陽に遷都するまで、曹魏の実質的な王都の役割を果たしました。
鄴は袁紹の本拠地だけあり大変な堅城で、審配が守っていましたが曹操を沢山の弩兵に狙撃させたり、裏切った馮礼が曹操軍300名を手引きして城内に入ると、門の上から大石を落として轢殺するなど防御兵器が整っていたようです。
結局曹操は、地下道を掘ったり、糧道を潰して兵糧攻めにしたり、鄴の周辺に幅と深さが6メートルもある濠を掘り、漳水を流し込んで水攻めにする等、半年ほど掛けて陥落させています。
ここから見ると、鄴というのは防御力が高い城であり、各地から人質を連れてきて軟禁するには都合が良い場所であったのかなと推測できます。
次々と鄴に送り込まれる人質
さて、鄴に人質が送り込まれたと書きましたが具体的に人質を送った人物を紹介します。
①馬騰:建安13年(西暦208年)張既に促されて渋々ながら馬休や馬鉄のような息子達と鄴に移動しています。
②韓遂:馬騰と同時期に鄴に任子(人質)を送っています。
③臧覇:建安10年(西暦205年)曹操が南皮で袁譚を破った後に臧覇と戦勝パーティーを開くと、その席上で家族を鄴に進んで出向かせた事を報告し曹操に忠誠を激賞されています。
④李典:建安11年(西暦206年)拠点としていた乗氏から、三千家余りの一族郎党を鄴に移住させ曹操に耿純に倣うつもりか?と揶揄われています。
しかし、これだけだと
「単純に当時は鄴が魏の首都だから、そこに人質を送っただけじゃね?」という疑問も生まれますが、もう少し調べてみると、さらに意外な事が分かりました。
激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志』
洛陽遷都後も鄴には人質が送られた
しかし、明帝、曹叡が即位した後の詔に以下のようなものがあります。
「明帝は各地の郡県の令に使者を送り、自分の統治するエリアの危険度を劇・中・平で自己申告せよと命じた。
この時、涿郡太守王観の部下は涿郡を「中」か「平」にしようと進言したが、王観は涿郡が辺境で異民族の攻撃も多い故に劇だと応じた。それに対し部下は「劇」に認定されると恐らく人質を出さねばならなくなりますよと答えた。
しかし、王観は太守とは民の為に存在するのであり、劇と認定されれば危険地域として民は賦役が軽くなる、私の個人的なことのために群民を裏切る事は出来ぬと言った」
こうして王観は涿郡を「劇」認定し、病弱な後継ぎ息子を鄴に人質に送ったと三国志王観伝に書かれています。明帝の時代はすでに、洛陽に遷都し鄴は首都ではありませんが、そのまま人質は鄴に送り込まれているのです。この点から鄴には広い意味では逃げられては困る人質を軟禁する監獄の役割があったのではないかとkawausoは推測します。
皮肉、、司馬懿が魏の諸侯王を鄴に軟禁
さて、曹魏にとって叛かれては困る重臣の身内を軟禁していた鄴は皮肉な運命を辿ります。西暦249年高平陵の変で曹爽一派を追い落とした司馬懿が魏で権力を握ったのです。
ここから司馬一族の天下への地盤固めが始まるのですが、西暦251年正月、兗州刺史の令孤愚と太尉の王淩が宣帝に背いて、楚王の曹彪を帝位に立てようとクーデターを計画。
しかし、司馬懿に計画は漏れてしまい決起する前に王淩は捕えられ毒を飲んで死にます。
ここから司馬懿は、同様の擁立クーデターが起きないように曹魏の諸侯王をことごとく集めて鄴に留め置き、官吏に命じて監視させて連絡を取りあえないようにしたと晋書、高祖宣帝懿記に書かれているのです。それまで、曹魏に叛く恐れがある重臣を軟禁していた鄴に今度は曹魏の諸侯王が軟禁され、官吏がそれを厳しく監視しているのですから皮肉な噺ですね。
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