三国志の武将たちは、後世でその評価が覆されることも多く、価値観や時代の流れで再評価されたりしなかったりというのが面白いところです。しかしそんな中でも、特に面白い、数奇な人生をおくった武将である心配……じゃなかった、袁紹軍で色々と有名な審配をご紹介しましょう。
見終わった際にはどんな評価をしたいか、そんな感想を聞きたくなる武将ですので知らない方はこの機会にぜひ審配について知ってみて下さいね。
この記事の目次
郭図や逢紀とセットです!
さて審配は袁紹が生存している頃は、良く郭図や逢紀と一緒に出てくることが多いですね。もうこの瞬間からちょっと嫌な予感がしてくる武将ですが、大体その予感は当たりです。
逢紀とは一緒に軍務を管理する間柄だった審配は、官渡の戦いで田豊、沮授の出した持久戦作戦を無視。短期決戦に踏み切った審配でしたが、許攸の家族を逮捕したことで許攸の裏切りを招いてしまいます。
とは言えこれ自体は許攸が袁紹に策を聞き入れられないと普段から不満に思っており、そこで法を犯した身内を逮捕されたことで離れることになっただけなので、あくまできっかけであってそこまで審配は悪くはありません。
めっちゃ嫌われとるやんけ
しかし曹操に子供を捕らえられてしまったのが運の尽き。
「審配は捕まった子供が心配だから裏切る(とても意訳)」と各所から言われてしまった審配、郭図や辛評がそれに同調して大ピンチになってしまいます。
ただし同僚の逢紀(審配がとてもきらい)から珍しく「私情と国の大事は別」と弁護され、何とか助かりました。この件で逢紀にとても感謝した審配、しかしやっぱりその後仲が悪化してしまったようです……袁紹軍、ほんと仲がよろしくないですねぇ……。
袁尚擁立
そして袁紹死後、審配は袁尚を擁立します。というのも辛評らが袁譚派で「袁譚が跡目になると辛評らに殺されちゃう!」という私情全開フルスロットルな様子が後漢書、正史三国志両方に書かれているのがもう笑うしかないような状態。
後漢書では「多くの人々は袁譚様を支持してたのに審配が遺命を偽造しやがった!」と書かれていますが、その後の兄弟喧嘩を見ると結構袁尚派が多くこの件に関しては微妙なところ。しかしどちらにせよ私情で袁家分裂を招いたのは審配について辛い評価をしたいところです。
まだまだ終わらない私情
ですが審配のやらかしはまだまだ終わりません。この後に袁尚の配下としてギョウに配属された審配。そしてギョウには辛評の家族がいました。なんと審配、辛評の家族を捕らえただけでなく、処刑まで行ってしまうのです。
そんな審配は荀彧曰く「独りよがりで策がない」とまで言われてしまうのでした。
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