母の美貌から数奇な運命を辿ることになった秦朗という武将がいます。彼は曹操の養子となり、皇室の一人として迎え入れられ、歴代の皇帝に愛され……最後は讒言されたとはいえ、佞臣としての評価という立場に落ちてしまうことになった悲劇の人物。
しかし彼は本当に佞臣だったのか?果たしてその末路は、悲惨であったのか?
今回はその点を解説しながら考えていきたいと思います。
秦朗の父と母
秦朗は呂布の部下であった秦宜禄と、後に曹操の妻の一人となった杜氏の息子です。曹操に呂布が下ヒを包囲された際に袁術に救援要請をしにいった先で父親はなぜか別の女性と結婚させられ、母と下ヒに留まさせられた幼い秦朗はそのまま落城を経験することとなりました。その後、母は曹操の目に留まって妻に迎え入れられ、曹操の養子になります。
尚、父親は色々あって張飛に殺されることとなりました……うーん、戦国の世。
曹操の養子となった秦朗
さて前の夫との子である秦朗、それでも彼は曹操からとても可愛がられて育てられます。その可愛がりっぷりは曹操自身が「わたしほど連れ子を可愛がる者がいるだろうか」と言ってしまうほど。
そんな秦朗は同じく曹操連れ子だった何晏が豪華な服で着飾ったのに対して、分相応の服を着て慎む様にしていたといいます。もしかしたらそう言った所が可愛がられた秘訣だったのかもしれませんね。
そして成長していった秦朗は諸侯の間を渡り歩いて遊びほうけていた事もあったそうですが、曹操だけでなく、曹丕も咎めることはなかったほどお目こぼしをされていました。
歴代皇帝に親しまれる秦朗
そんなちょっと甘やかされていたような秦朗、時代は曹丕の子である曹叡の代に。驍騎将軍となった秦朗は曹叡が御車で出かける際は秦朗は常に随行する程の仲となり、寵愛されました。
しかし曹叡の臣下の死刑を咎めるようなことは出来ず、また昔の人脈から人材推挙を行うようなこともないまま……ある意味でイエスマンのようになってしまった秦朗は、曹叡にとって居心地が良い存在だったのでしょうか。
曹叡は秦朗を幼名の阿蘇と呼んで親しみ、秦朗のために大邸宅が造られました。このため秦朗は賄賂を贈られるようになり、大きな資産を抱えることとなります。
ですがこのことを非難され、魏略では孔桂と共に佞臣扱いされることにもなってしまいました。
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