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儒教への発展
一方でこうした天道思想の考え方を実際に世の中の仕組みに活かそうとしたのが「儒教」です。儒教の基本的な考え方は「徳」と「秩序」を非常に重んじることにあります。言い方を変えると、「人の道」とも言えるのかもしれません。
これらは仁・義・礼・智・信の「五常」の徳性や、「五倫」と言われる父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の5つの人間関係の基礎によって表されています。
予め定められた秩序を守り、人のあるべき姿を徳目として掲げることで、「徳治主義=王道による治世」によって世を治めることが儒教の理想とされています。
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孔子の思想や説話
儒教の中で最も有名な人物といえば、論語を著した「孔子」が挙げられると思います。孔子の思想や説話には、「人とはこうあるべき」や、「世の理とは」といった表現が多く出てきます。つまり孔子は、人やものごとのあるべき姿を理として定め、それを実行することで徳治主義が実現することを理想としていました。
しかし、孔子がいきた時代は、策謀が渦巻く春秋戦国の国盗りの時代であったため、武力によって国を治める(=覇道)と尽く対立したため、各国の君主たちから迫害され流浪を余儀なくされました。しかし戦乱が徐々に収まり、時代とともにその捉えられ方は変化していきました。
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易姓革命の成立
天道思想は中国において皇帝が王朝を建てる際の大義名分の拠り所と、されるようになっていきます。天道思想の根本は、この世の理である天命を、天地の支配者である天帝が定めると冒頭に述べました。
この考えから派生して、王朝とは、天帝からその徳行を認められた皇帝が天帝に代わって地上を治めるものへと変化していきます。こうした中で生まれてきたのが、「易姓革命」です。
易姓革命とは?
易姓革命とは、天帝に代わって地上を治めていた皇帝が、その徳を失ったことによって、新たに天帝に選ばれた皇帝が古い王朝を倒して新たな王朝を建てるものです。これは周王朝を建てた武王が、殷(商)の紂王を滅ぼしたころから唱えられるようになってきました。
その方法には、前述の武力による「放伐」と、後漢の献帝が魏の曹丕に皇帝の位を譲った「禅譲」の2通りがあります。ここの重要になるのは、帝位の継承が血統によって行われるものではないということです。
王朝が同じであれば、帝位は皇帝の子孫へと受け継がれていきます。しかし易姓革命においては血縁とは無関係に、徳行(実際は武力)によって受け継がれていくということです。つまり、易姓革命の実態とは、武力によって王朝交代が行われることを事後的に正当化する大義名分にも成り代わっています。
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天道思想と易姓革命の歴史的意義
こうした理論が存在したからこそ、劉邦・朱元璋といった平民出身者や、曹丕・楊堅といったそれまで王朝の臣下だった人物たちが自己の王朝を建てることを正当化できたと言えます。このように、天道思想は世の中の理を表すものから、王朝交代を正当化する理論へと変化していきました。
こうした流れは、歴史的に見て非常に重要であると考えられます。なぜなら、中国で起きた反乱はこうした理論に則って起こされ、それが歴史の転換点となったこともあるからです。
一つ例を上げると、後漢の時代に太平道の教祖であった張角の起こした「黄巾の乱」があります。
張角は自分たちの組織をまとめる上で、「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(蒼天はすでに死す、黄天まさに立つべし 歳は甲子に在りて、天下大吉)」というスローガンを掲げました。
この解釈には様々ありますが、大まかに意味を説明すると「蒼天(これまで地上を治めていた漢朝の徳行)は死に(地上に存在するべきではない)、黄天(徳行を成そうとする我々黄巾党)が今こそ立ち上がる(王朝を建てる)べきである、干支が甲子の今我々が立ち上がることで、天下は治まる」となります。
すなわち、張角は自分たちの決起を「易姓革命である」と捉えていたのではないかと考えることができます。この反乱によって漢朝の権威が地に堕ち、三国時代の幕開けとなったことを考えると、非常に重要な意味を持つと言えるでしょう。
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