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この記事の目次
少数兵でも完勝しちゃ・・・ったのがいけなかった?
この蜂起を聞いた王莽は数十万の討伐軍を差し向けます。そして劉秀たちの兵は集まったと言えど数千程度。しかし三国志に慣れ親しんだ皆様なら、寡兵に大軍をぶつけるのは負けフラグというのは良くご存知でしょう。
なんと劉秀はこの戦に大勝利、これをきっかけに兄弟の名が知れ渡っていくのですが、そこは人生万事塞翁が馬。劉秀の兄、劉エンは弟らとともに勢力を拡大し、彼を皇帝にと推す者も多くいました。
ですがその拡大していく勢力を恐れられたのか、皇帝となったのは同じ劉氏である隆玄。そして更皇帝となった隆玄は劉エンを謀殺。劉秀も目を付けられることになります。
そして皇帝になる劉秀
兄と同じく殺されそうになるが、劉秀は皇帝に反意がないことを証明するかのように逆に兄の非を謝罪。その真意を探るべく更皇帝の息のかかった者たちが葬式に訪れるも、劉秀はその心中を明かすことなく、この危機を逃れました。
その後、劉秀は河北制圧に赴きます。この際にはまだ疑われていたのか、手勢も少なく、軍は貧窮状態でした。しかしここで河北の名士である劉楊の娘と政略結婚することで勢力を拡大し、僅か一年ほどで河北の大部分を手中に収めました。
力を付けた劉秀は独立を宣言、部下に「皇帝になったらどうですか」と言われても二回は断り、三回目で「ちょっと考えてる」そして四回目で「即位します」となりました。この辺りはお約束ですね。皇帝になった劉秀は十数年後には中国全土を制覇、ここから後漢時代が始まります。
光武帝の「凄さ」
さて劉秀、光武帝の凄さをご説明しましょう。前述したようにその凄さは「漢王朝の復興」にあります。中国において王朝が滅びるというのは「徳」を失うことです。国が乱れるのも天変地異が起こるのも大体皇帝、王朝が徳を失っているからです。
だから滅んだ王朝には、殆ど誰も見向きはしなくなります。しかしそんな見向きもしなくなったはずの王朝を復興させたのが光武帝なのです。人は一度つけられたイメージを覆すにはよっぽどのことをしなければなりません。それがマイナスイメージであれば尚更、前と同じではなく、前よりも遥かに良いことをしないとそのイメージは拭えません。
お分かりでしょうか、それを成し遂げたのが光武帝です。これこそが、筆者の中で光武帝が漢王朝を復興したことが「光武帝の最大の凄さ」であると思う理由です。
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三国志ライター センのひとりごと
光武帝の偉業は他にも幾つかありますが、やはりまずは漢王朝の復興であると思うので、そこを主体にしてご説明させて頂きました。ここだけ見ると連戦連勝、心中を漏らさず、ピンチをチャンスに変えてのし上がった人……と思われるかもしれませんが、光武帝にはお茶目な逸話も多々あります。今度はそちらについてもご紹介していきますので、この機会に光武帝をよろしくお願いします。
参考文献:後漢書光武帝紀上 光武帝紀下 東夷列伝
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