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この記事の目次
光武帝の政策とは?
ここで光武帝の政策の一部を見ていきましょう。光武帝の時代には民衆が他国へ逃亡、流民となっていたことによってまず農民の数が足りず、人口も減少していました。
このため光武帝は奴隷解放を何度か行うことで民の数を増やし、農村部の人口を増やすことで国力の増強を図りました。
また光武帝は政治的思想に儒教を取り入れ、洛陽において儒学を講じさせるなどの学政策も取り入れています。……これらはあくまで一部ではありますが、光武帝の政策は王莽のやろうとした(そして失敗した)政策と似通った部分があるのはお気づきでしょうか?
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光武帝と王莽の違いとは?
光武帝と王莽、全てではないものの二人がやった政策が成功と失敗という二つに分かれた理由はどこにあるのか。そこには「理解」と「理解されるための時間」があると思います。
当たり前ですが新しいことを始めようとする時、周囲は混乱します。馴染むまでに時間が必要で、その間の時間は不満が、失敗が出るでしょう。しかし結果が出始め、馴染みだすと評価はされていきます。
結果として「良いことをした」となるのです。王莽の政策は(全てが完ぺきとは言い難いですが)性急過ぎました。性急すぎる上に王莽の時代が早急に終わってしまったことで、その結果が出る前に終わってしまっているのです。対して光武帝は全てが同じではないものの、他人の理解を得ながら、ゆっくりと政策を行っていった……こうした背景があるからこそ、二人の政策は成功と失敗という明暗が出てしまったのではないかと思います。
後漢王朝のプロパガンダ
因みに前時代を打倒して新しい時代を開くと、基本的に前の時代は悪く言われます。前の時代が悪でないと、それを打倒した新しい時代が正義でなくなるからです。後の世の正当化、というのは良くある話ですね。王莽の時代は全てが正しかったとは言えません。
国中に混乱を招き、その混乱を招いた張本人と共に滅んだとも言えるでしょう。ただし全てが失敗ではなかった。その失敗の背景には色々な理由があり、そしてその失敗から後の世は学ぶことができた。そう思って見るとまた、歴史の別側面が見えてくると思うのですが、どうでしょうか?
三国志ライター センのひとりごと
今回は王莽と光武帝についてお話させて頂きました。王莽もまた、近年ではその人物評価が見直されている人物の一人です。個人的に王莽のやったこと全てが実は良かったこと、とは思えません。しかし良い所は少なからずあったのでは、と考えることはできます。そう考えるとまた後の世も面白く見えて、更に後の三国志までその影響が出てくるのですから……歴史って、面白いですね。
参考文献:漢書王莽伝 後漢書光武帝紀上 光武帝紀下
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