広告

孫権はなぜ夷洲(台湾)に遠征したの? 倭国侵略も視野に入れていた?

2021年1月11日


はじめての三国志_ページネーション

こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。

孫権の夷洲遠征(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



夷洲遠征の目的は兵力

皇帝になることを決意する孫権

 

この遠征は孫権が即位した翌年で、()も度々侵攻していた時期です。にも関わらず暴挙とも言える行動をとった理由は何だったのか?

 

呉魏に臣従したり抜けたりを繰り返す孫権

 

シンプルに魏との兵力差を埋めるためとも考えられますが、実は他にも目的があった可能性があります。もともと江東は地方豪族の集合体で、魏や(しょく)と違ってそれぞれが私兵を有していました。やろうと思えば君主に逆らって独立ができたわけです。

 

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

実際、孫家は孫策(そんさく)の代に一気に勢力を伸ばし、江東の盟主という位置づけになりましたが、孫策の死後には各地で反乱が起きました。孫権が兵力を求めたのは外敵から国を守るだけでなく、国内の反乱を抑える意味合いもあったのです。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

そのためにわざわざ海の外にまで人を求めたわけですが、蓋を開けてみると兵士数はマイナスに・・・

 

関連記事:魏呉蜀の国力差ってどれくらいなの?三国パワーバランスを考察

関連記事:三国志時代では将軍はどんな役割を担ったの?

関連記事:蜀と呉が兵力差以上に魏に勝てない本当の理由

 

孫権の兵力増強計画

呉南蛮異民族をボコボコにする潘濬(はんしゅん)

 

孫権の夷州遠征は珍しい例のように思えますが、実はあちこちへ派兵して徴兵を実施しています。

 

226年に交州(こうしゅう)(今のベトナム北部と広州)を士一族から奪いとる、

234年の揚州(ようしゅう)の異民族だった山越(さんえつ)を討伐、

239年遼東(りょうとう)半島を攻めて住民を連れ帰る、

242年に一度は断念した珠崖へ侵攻する

 

など夷州遠征を含めると東西南北あらゆる場所に派兵しているのです。

 

関連記事:世界史レベルの三国志!英傑たちは隣の異民族とどう付き合ったの?

関連記事:漢王朝を裏切って異民族の土地に逃げた盧綰とは何者?

 

最も成功したのは山越攻め

山越族(異民族)

 

あちこちを攻めた孫権ですが、最も大きな徴兵に成功したのは揚州の山間部に居住していた山越(さんえつ)討伐です。比較的漢人の文化に近い生活を送っている上に何度も()の領土に侵攻しているので兵士としても優秀。

 

諸葛恪の栄光と破滅04 諸葛恪

 

長らく手を焼いてきた山越を諸葛恪(しょかつかく)が3年かけて討伐し、降伏した住民を戸籍に組み込み6万人を徴兵するという成果を出しました。

 

関連記事:費桟とはどんな人?本当は異民族ではなかったアウトロー

関連記事:孫権の髭はどんな髭?なんと孫権は異民族でもあった?

関連記事:弱きを助け強きを挫く!異民族をも信服させた黄蓋の魅力とは

 

衛温と諸葛直を投獄した理由

倭と交流を結びたがっていた孫権

 

結果的には失敗だった夷州遠征ですが、将を獄死させるのは少々やりすぎという気もしますね。

 

呉の孫権

 

投獄した理由は記されていませんが、兵を失ったことよりも亶洲が見つからなかったことの方が要因として大きかったのかもしれません。

 

公孫続

 

孫権は遼東(りょうとう)を統治していた公孫氏(こうそんし)に対して皇帝即位の報告をしたり、232年には馬を購入する名目で将を派遣するなどたびたび接触を図り、最終的には家臣の反対を押し切って臣従させようとしました。

 

邪馬台国と倭人

 

公孫氏は東アジアの外的勢力と交流があったため、そこから倭国(わこく)(亶洲)の情報を得ようとしたという見方もできます。

 

関連記事:呉と倭は外交交渉をしていたの?日本を目指した衛温と諸葛直

関連記事:【if三国志】もしも、孫権が邪馬台国を発見していたら?

関連記事:新事実!?邪馬台国は魏とお金を使って貿易していた?(HMR)

 

三国志ライターTKの独り言

 

そのくらい亶洲に対するモチベーションが高かったのに、派遣した将は情報すら得られず兵を失って遠征を終わらせてしまったので怒りに触れてしまった・・・というのは考えすぎでしょうか?

 

後継者争いで悩む孫権

 

後年の孫権は暴走気味ではありますが、あの手この手で国を守ろうとした名君だったと言えるでしょう。

 

関連記事:自分が元凶だと忘れる孫権の最高峰大失敗「二宮の変」わかりやすく解説

関連記事:決して甘いだけではない皇帝・孫権の決断力に思わず惚れ惚れする!

関連記事:孫権はボロボロの宮殿に住んでいたってホント?

 

濡須口の戦い特集バナー

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

-三国志の雑学
-, , ,