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この記事の目次
夷洲遠征の目的は兵力
この遠征は孫権が即位した翌年で、魏も度々侵攻していた時期です。にも関わらず暴挙とも言える行動をとった理由は何だったのか?
シンプルに魏との兵力差を埋めるためとも考えられますが、実は他にも目的があった可能性があります。もともと江東は地方豪族の集合体で、魏や蜀と違ってそれぞれが私兵を有していました。やろうと思えば君主に逆らって独立ができたわけです。
実際、孫家は孫策の代に一気に勢力を伸ばし、江東の盟主という位置づけになりましたが、孫策の死後には各地で反乱が起きました。孫権が兵力を求めたのは外敵から国を守るだけでなく、国内の反乱を抑える意味合いもあったのです。
そのためにわざわざ海の外にまで人を求めたわけですが、蓋を開けてみると兵士数はマイナスに・・・
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孫権の兵力増強計画
孫権の夷州遠征は珍しい例のように思えますが、実はあちこちへ派兵して徴兵を実施しています。
226年に交州(今のベトナム北部と広州)を士一族から奪いとる、
234年の揚州の異民族だった山越を討伐、
239年遼東半島を攻めて住民を連れ帰る、
242年に一度は断念した珠崖へ侵攻する
など夷州遠征を含めると東西南北あらゆる場所に派兵しているのです。
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最も成功したのは山越攻め
あちこちを攻めた孫権ですが、最も大きな徴兵に成功したのは揚州の山間部に居住していた山越討伐です。比較的漢人の文化に近い生活を送っている上に何度も呉の領土に侵攻しているので兵士としても優秀。
長らく手を焼いてきた山越を諸葛恪が3年かけて討伐し、降伏した住民を戸籍に組み込み6万人を徴兵するという成果を出しました。
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衛温と諸葛直を投獄した理由
結果的には失敗だった夷州遠征ですが、将を獄死させるのは少々やりすぎという気もしますね。
投獄した理由は記されていませんが、兵を失ったことよりも亶洲が見つからなかったことの方が要因として大きかったのかもしれません。
孫権は遼東を統治していた公孫氏に対して皇帝即位の報告をしたり、232年には馬を購入する名目で将を派遣するなどたびたび接触を図り、最終的には家臣の反対を押し切って臣従させようとしました。
公孫氏は東アジアの外的勢力と交流があったため、そこから倭国(亶洲)の情報を得ようとしたという見方もできます。
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三国志ライターTKの独り言
そのくらい亶洲に対するモチベーションが高かったのに、派遣した将は情報すら得られず兵を失って遠征を終わらせてしまったので怒りに触れてしまった・・・というのは考えすぎでしょうか?
後年の孫権は暴走気味ではありますが、あの手この手で国を守ろうとした名君だったと言えるでしょう。
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