微妙に歴史全体にからんでくるわりには
「どうぞみなさん、好きなところから攻めてきてください!」と言わんばかりのスキだらけな構えで中原に横たわる印象ばかりが残っている二人です。
ところでこの二人、名前に「袁」の字が共通で入っているところからもわかるとおり、実は親戚どうしだったりします。たしかに「反董卓連合軍」の時は、この二人はいちおう共闘っぽい動きをしています。となると当然、このような疑問が湧いてくるのではないでしょうか。
「親戚どうしで、それぞれが中国大陸の重要拠点の領主だったならば、どうして『袁』氏どうしで同盟を組み、覇業に乗り出さなかったのだろう?」
これについては、袁紹と袁術の二人の「関係」をよく調べれば調べるほど、「共闘できなかった」理由があることがわかってきます。どちらかといえば、二人のうちのもっぱらいっぽうの、勝手なふるまいのせいで、この二人は最初から憎み合いつぶし合わざるをえない状況になってしまったのでした。
この記事の目次
まずはおさらい!袁紹と袁術の関係性と哀しき「マウント取り合い」の宿命
まずは事実関係の整理から。袁紹と袁術を生んだ「袁」氏はもともと名門中の名門。そもそも三国時代の最初のほう、黄巾の乱から十常侍の陰謀に至る経緯のところでも、漢王朝の重要人物として、袁紹がウロチョロと登場してきます。
上司の何進将軍が暗殺されるのを止められなかったり、あんまりいいところがないのが気になりますが。ともかく、劉備や曹操と比較すると、最初から出世コースに乗っていることがわかります。
そんな袁紹と袁術の関係はというと、諸説ありますが、どうやら「イトコどうし」だったようです。もっともこのあたりは、袁氏の中でも、本家と分家との間で養子縁組が複雑で、袁紹と袁術のどちらが「本家」に近い血筋なのか、よくわからないところがあるのですが。
ただし重要なことは、本人たちがどう考えていたか、です。その点では、袁紹のほうがどうやら自分こそ袁氏の正流だと自負していたようですし、周囲もそう見ていたっぽい。
問題は、袁術がそれに対して、「いや、自分こそが正流じゃ!」と、ことあるごとに発言し、マウントを取ろうとしていた様子という点です。
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袁紹と手を組む戦略と「逆」ばかりを衝いた袁術のヒネクレ戦略
これがただの親戚間の仲違いで済んでいのたなら、まだよかったのですが。厄介なのは、袁紹と袁術がともに天下を狙えるポジションについてしまってから。
袁術は揚州という、洛陽や長安に近い絶好の場所に拠点を築き、袁紹は河北という、肥沃で広大な土地に拠点を築きます。どちらも同時代のライバルたちから見て一歩有利なスタート地点。
もしこの二人が、親戚どうしで同盟を結び共闘をすれば、圧倒的に有利な展開になったはず。ところが、ここから袁術の怪行動が始まります。
- 袁紹が献帝の擁立を認めない立場をとると、袁術は献帝を支持する
- 袁紹が公孫サンと対立すると、なぜか袁術は公孫瓚と同盟を組み支援をする
どう見ても袁紹がやろうとしていることの「逆張り」を狙っているとしか思えない行動ばかり。どうやら袁術の側は、なぜか最初から「袁紹を潰してやる!」という気概満々で登場してくるのです。
なぜなのか?
もう、同族どうしのマウントの取り合い、合理的な戦略があったというよりは「オレのほうが袁氏の正流じゃ! 袁紹を潰してやる!」という感情が先行しての不合理な選択としか思えないところがありますが。
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