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この記事の目次
最大の問題は袁術のあまりの不人気
群雄割拠のこの時代、不合理な戦略をとっても、武勇や智謀に優れていれば、もう少し活躍はできたでしょう。ところが、言ってはなんですが、袁術の行動はハデなわりに、いつも彼本人にとっても裏目に出ます。
- 袁紹にさからって献帝を奉じた件については、その献帝を迎えに行こうとしたのに曹操に先を越され、むしろ曹操に「袁術は逆賊」の汚名を着せられてしまった。献帝に対する支持を打ち出した意味が、まったくない。
- 公孫瓚を支援した件については、けっきょく、袁紹のほうが公孫瓚より強くなってしまったから、これも意味がなかった。袁紹との仲が決定的に悪くなっただけだった。
この袁術の怪行動に満ちた人生の中で、決定的なトドメとなったのは、玉璽を手に入れて、自ら皇帝を名乗ったこと。
曹操や劉備や孫策・孫権らもまだまだライバルどうしで激しく競り合っている時代に、なんの実績もない袁術が、玉璽を手に入れたというだけで「わしが皇帝じゃ」と宣言したわけですから、
誰がどう見ても、
「お前が皇帝? 冗談か?」と一笑に伏される結果に。
それどころか玉璽を欲しがる群雄たちの恰好のエサとなって、ボコボコの袋叩きにあい、滅亡したのでした。
「カモがネギをしょって歩いている」ならぬ、
「袁術ごときが玉璽を持って揚州一国で寝そべっている」ように群雄たちの目には映ったことでしょう。
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まとめ:袁紹と袁術の共闘が可能だった唯一のシナリオは?
このような次第で、せっかく名門のイトコどうしながら、袁紹と袁術には共闘関係は実現しませんでした。ただしこのように整理すると、二人の仲違いは、もっぱら袁術の、「わしのほうが袁紹より上じゃ!」の思い込みによるものとわかります。
三国志ライター YASHIROの独り言
ということは、袁紹が「わかりました袁術さん、あんたが大将です!」とヨイショをすれば、袁紹と袁術の同盟は成立していたかもしれません。そのシナリオだったら、どうなっていたか?
袁紹は袁術の言うことをきく。顔良や文醜や田豊や沮授は、紀霊・李豊・韓胤あたりの配下に入る。
むむ?
こうしてみると、なるほど、この同盟は袁紹軍にとって何のウマミもないですね。
顔良&文醜&田豊&沮授「あいつらの配下になるのですか? 絶対、イヤですよ!」
袁紹「うーん。たしかに、わしも袁術の配下になったところで、どのみち曹操に勝てる気がしない」
というわけで、この唯一のシナリオも現実味はなく、
「袁紹と袁術は共闘できない運命」に変わりはなかったのでした。
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