関羽の末裔は皆殺しにされた?史書に残る末裔に迫る

2021年1月30日


はじめての三国志_ページネーション

こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。

関羽の末裔(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



三国時代以降の関羽の末裔

西遊記巻物 書物_書類

 

新唐書(しんとうじょ)」によると唐代に活躍した関播(かんはん)という人物が関羽の末裔であるとされています。関播は徳宗(とくそう)の時代に宰相となった人物で、後年は太子・李誦(りょう)の少師になるなど名を馳せた人物です。

 

この他にも関平と趙雲の娘を親に持つ関樾(かんえつ)なる人物がいます。関樾は正史、演義には登場しませんが、「続修江陵県志」に若干の記述があります。また、関樾の末裔とされる関朝泰(かんちょうたい)という人物は、関羽最期の地となった当陽にある廟の祭祀をしていたと「世宗憲皇帝実録(せいそうけんこうていじつろく)」にあり、関の末裔たちは代々江陵に住んだようです。

 

同年小録(書物・書類)

 

明王朝の成立から滅亡までが記載された「明史(みんし)」には、関羽の末裔として関永傑(かんえいけつ)という人物が登場します。世間の人が描く関羽像にピッタリの人物と評されていて、明が滅んだ李自成(りじせい)の乱で賊には降れないと討ち死にしている様も関羽のようです。

 

清代に編纂された「清史稿(しんしこう)」では、わずかですが同時代に存在した関羽の末裔のことが記載されています。関居斌(かんいひん)は関羽の出生地である解州の廟祀になり、関霨(かんい)は洛陽の廟祀(びょうし)、前述したように関朝泰は当陽の廟祀にしたとあります。ただ、ここに出てくる人物たちは史書に記載があるだけで、本当に関羽の末裔であるかは分かりません。

 

関連記事:横浜関帝廟のご利益のでる参拝の仕方とは?パワースポットにも最適?

関連記事:関帝廟ガイド~知っておきたい、正しい「基本」の参拝方法

 

架空の息子たち

関索

 

関羽には関索を始め、後代に創作されたと思われる息子たちがいます。本題とは少しずれますが、簡単に触れておこうと思います。関索は関羽の三男、作品によっては次男として登場します。演義、三国志平話でも少しだけ出てきますが、最も有名なのは説話の「花関索伝(かかんさくでん)」。

 

物語の中では鮑三娘(ほうさんじょう)王桃(おうとう)王悦(おうえつ)らの妻たちと共に益州(えきしゅう)や雲南の地を中心に活躍をするのですが、その辺りの地域には関索廟(かんさくびょう)など名前にちなんだ旧跡が多々残っています。

 

他にも明代の三国志後伝には関謹(かんきん)関防(かんぼう)関河(かんか)関山(かんざん)関心(かんしん)といった人物が登場。関心だけが関索の息子で、それ以外は全員関興の息子です。

 

また、清代以降の「関羽文献(かんうぶんけん)」では関彝の息子に関夷(かんい)がいて、その後に関敝(かんしょう)関朗(かんろう)関康之(かんこうし)関攀(かんはん)に続いたとあり、この血筋から水滸伝に登場する関勝(かんしょう)に続いたとも言われています。有名になると親戚が増えるといいますが、関羽の場合は血縁が増えていったようですね。

 

関連記事:関羽は劉備の配下ではなかった?荊州独立説を考察

関連記事:なぜ関羽は祀られるようになったの?初期の関羽信仰から神様になった経緯

 

関羽の一族は皆殺しにされた

ホウ徳(龐徳)

 

関羽は樊城の戦いにおいて于禁(うきん)と龐(ほうとく)を捕らえていますが、龐徳は降伏を拒んだために関羽によって処刑されました。

 

春秋左氏伝を読む関羽

 

その龐徳の息子である龐(ほうかい)が蜀攻略戦に従軍し、蜀を平定した後に関羽の一族を皆殺しにしたという内容が王隠(おういん)著の「蜀記」に記載されています。ただ、「持ち帰った龐徳の遺体は生きているかのようであった」など事実とは思えない(龐徳は荊州(けいしゅう)で死んでいるため)記載があるため皆殺しの記述も信憑性に欠けます。

 

ヒゲが美しい関羽

 

もう少し深く突っ込むなら関羽が処刑された際に家族はどこにいたのかは疑問が残ります。関羽は長らく荊州に居住しているので、普通に考えれば家族も荊州にいたはず。そう考えると残った家族は孫権に殺されているか、孫権に降伏をしているわけですが、関興が生き延びた点から孫権は家族を成都に帰したのかもしれません。

 

いずれにしても前述した末裔たちが各地にいることを考えると皆殺しにはされていない可能性が高いでしょう。

 

関連記事:「于禁は降伏。龐徳は討ち死に」どうして違いが生まれたの??

関連記事:馬岱は馬超と蜀に降ったのに何故龐徳だけ漢中に残った?

 

関羽の姓は「馮」である説

セクシーすぎる塩商人だった関羽

 

正史においても関羽の字である雲長(うんちょう)は改名したもので、もともとも字は「長生」という記述があります。ここからの派生で関羽の名字も「関」ではなく「(ふう)」であるという説があるのをご存知でしょうか。

 

清代の学者・梁章巨が記した「歸田瑣記」では、関羽は元々「馮賢」という名前で字は「寿長」であり、郷里で人助けのために殺人を犯して出奔する際に潼関(どうかん)で名を改めたとあります。

 

この件は様々な議論を呼びましたが、関羽の出生地である解州(かいしゅう)(当時は解県)で関羽の墓が見つかったことである程度の決着が着きました。そこには関羽の祖先の名前などが記されていましたが、いずれも「関」姓だったのです。

 

関羽の祖父と父

神様になった関羽(関帝廟ver1)

 

前述した墓石には関羽の祖父や父の名前なども記載されていました。それによると祖父は「関審(かんしん)」、父は「関毅(かんき)」で、文人の家系であったとされています。

 

三国志ライター TKの独り言

TKさん(三国志ライター)

 

他にも関羽の生年月日は160年6月24日、関平は178年5月13日であるといった情報も記されており、中国ではこの内容を正式なものとして捉える人も少なくありません。

 

関連記事:関羽の樊城攻めは単独行動だった?

関連記事:関羽の死に関わってしまった糜芳の顛末!正当な評価されている?

関連記事:関羽が受けた毒矢手術から読み取る豆知識!囲碁エピソードの時には華佗と面識があった?

 

赤兎馬はカバ

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

-はじめての蜀, 関羽
-