三国志の英雄、劉玄徳、その劉備が8年の歳月を過ごしたのが当時、劉表が支配していた荊州でした。
この8年間で劉備は劉表の長男である劉琦と親しくなり、逆に蔡瑁一派が担ぐ劉琮とは疎遠だったと語られがちですが、実は劉備の能力は劉琮にも頼りにされていたようなのです。
この記事の目次
劉備はホントは劉琮にも頼りにされていた?ズバリ!
では、忙しくて記事を読む時間がない人の為に、今回の記事の内容をかいつまんでズバリ!解説します。
1 | 劉琮は土地と軍事力を頼り、蒯越、韓嵩、傅巽の降伏派に反発する |
2 | 傅巽は3つの要因を挙げて曹操に勝てない事を述べ その途中に劉備では曹操に及ばない事を引合いに出す |
3 | 傅巽は劉備が曹操を防いでも、劉琮が劉備に及ばないので 荊州を乗っ取られると主張 |
4 | 劉琮は独力では荊州を全うできないと悟り曹操に降伏 |
このように曹操への降伏を主張する派は、劉琮が土地と軍事力を頼みにする事に対し、劉備の力では曹操に勝てない事を主張しつつ、逆にもし劉備が曹操を防いだら、劉琮よりも実力がある劉備により荊州は乗っ取られると警告しています。
これを見ると劉琮は劉備を頼りにしていましたが、劉備が曹操に勝とうと負けようと、劉備に及ばない自分では荊州を維持できないと降伏派に悟らされて降伏を決意したのです。以下では、それぞれの内容を少し細かく見ていきましょう。
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最初は降伏する気がなかった劉琮
病死した劉表の後を継いだ劉琮ですが、正史三国志劉表伝によると、曹操への降伏を勧める、蒯越、韓嵩、傅巽に対して、
「今、諸君と荊州の地を拠点として先君の偉業を守って、天下の状況を見極めようとしているのに、どうして降伏しないといけないのか?」
このように強い調子ではないにせよ、降伏に疑問を呈します。
推測するに、少なくとも劉表が生きている間は曹操への降伏はタブーであり、劉琮の即位も、曹操には仕掛けないまでも、様子を見るくらいで納得させていた可能性があります。それが劉表の死後に、降伏すべきと言い出したので劉琮はビックリしたのでしょう。
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天の道理と劉備の頼りなさと脅威を強調
このような劉琮の疑問に傅巽は、「逆順には大体道理があり、強弱には定まった勢いがあります。家臣として主君を防ぐのは逆で、出来たばかりの荊州で国家を防ぐのは無理があり、劉備によって曹操に対抗するのは無理です。この3つの要素は、皆短く、王兵の鋒に抵抗しても滅びるのが道理です」
かくの如く述べて、天命を持ち出し、曹操は献帝を擁し劉琮は臣下である事。曹操の版図は強大で、それに出来たばかりの荊州王国では対抗できない事。そして、劉備で曹操に対抗するのは不可能と力説しました。傅巽は唐突に劉備を出していますが、これは劉琮が劉備を防戦の頼みにしている事を見越しての予防線でしょう。
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劉備は人の下につかない!
ここから傅巽は劉備に期待している劉琮に以下の如く質問します。
傅巽「将軍は曹操と劉備ではどちらが上とお考えか?」
劉琮「曹操であろうな」
傅巽「では、劉備と将軍を計ってはいかがか?」
劉琮「わしでは劉備に及ばない」
この回答を引き出してから、傅巽は劉備では曹操に勝てないのだから、荊州を守り切る事は不可能だし、仮に劉備が曹操を撃退しても、劉琮は劉備に及ばず荊州は劉備に乗っ取られてしまう。と指摘し、どっちみち荊州を維持できないなら降伏して天寿を全うするのが上策と結論づけます。
劉備は頼りになるかも知れないが、結局人の下風に立つ人物ではないので、国は奪われますよと傅巽は劉琮に焚きつけたわけです。そもそも劉表でさえ、劉備の才能を恐れて前線の傭兵隊長として置いておくだけで国政に関与させていないので、傅巽の指摘は間違ってはいません。
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