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この記事の目次
「忘年の交わり」とは?
陳泰と鄧艾は「忘年の交わり」を結びました。この意味は「年齢が離れている二人が認め合い、親交を結ぶ」という故事成語にあたり、現在でもつかわれることがあります。
由来は三国時代の少し前、後漢末期に20歳の禰衡の才能に当時50歳の知識人孔融がほれ込み、親交を結んだことから来ています。ちなみに鄧艾は陳泰より10歳年上になります。
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しかし鄧艾と陳泰の「忘年の交わり」は創作?
鄧艾と陳泰の「忘年の交わり」のエピソードなのですが、実は正史にそのような記述はありません。正史では二人の意見は対立し、結局は陳泰の意見が正しかったことになっています。狄道の戦いで姜維を破ったのは実際は陳泰の力が大きかったようです。
ではどこから来たエピソードかというと、小説「三国志演義」の創作になるのです。
鄧艾は「三国志演義」の主役である蜀を滅ぼした武将であることから、小説内でライバルとして優遇されているのでキャラに厚みを持たせるためにつけたしたエピソードだと考えられますね。
その後の鄧艾と陳泰
度重なる姜維の北伐撃退した後、魏は蜀の征討に乗り出します。その責任者に任命されたのが鄧艾でした。
鄧艾は鐘会と共に蜀を攻めますが、姜維の守る剣閣を落とすことが出来ません。
そこで鄧艾は迂回ルートである前人未到の地を強行軍し、蜀の首都成都を落とします。
功を上げた鄧艾ですが、その功を誇るあまり謀反の疑いをかけられ、結局は殺されてしまいます。一方陳泰は前線を離れ、中央で人事などを担当することになります。父と同じような内政担当大臣として歩むことになり、天寿を全うすることが出来ました。
残念ながら謀反の疑いをかけられていた鄧艾についてどう思っていたのかは伝わっていません。
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三国志ライターみうらの独り言
「忘年の交わり」が創作だったのは残念でしたが、生まれの違う二人が認め合う姿は胸をうつものがありますね。「三国志演義」の歴史上の人物のキャラを立たせるテクニックはすごい!と思います。
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